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正統なる育英の系譜
国内最高峰DF 松田直樹
についてのページ(2/2)
(没年2011.8.4(34歳))



横棒


松本山雅FC(元横浜Fマリノス) #3
世界に通じるフィジカルを持つDF松田


松田 直樹(まつだ なおき)
生年月日 1977年3月14日
(没年 2011年8月4日 満34歳)
身長/体重 183cm/78kg
血液型 A型
出身地 群馬県 桐生市(相生中)
利き足 右

〜経歴〜
前橋育英('92〜'95 キャプテン)U-15〜17
横浜Fマリノス('95〜'10)
松本山雅FC('11)




−公式戦戦績−
(数字が出場数 ( )内は得点)

J1横浜

'95 J1・33(1) 天皇杯・1 U-19
'96 J1・16 カップ・11(2) 天皇杯・1 五輪代表
'97 J1・31(2) カップ・6 天皇杯・2 U-20
'98 J1・12 カップ・4(1) 天皇杯・1 U-21
'99 J1・27 カップ・2 天皇杯・3 五輪代表
'00 J1・24(2) カップ・3 天皇杯・2(1) 五輪代表 日本代表・14
'01 J1・29 カップ・9 天皇杯・1 日本代表・10
'02 J1・25(2) 天皇杯・1 日本代表・12(日韓W杯・4)
'03 J1・20 カップ・5 日本代表
'04 J1・24(1) カップ・4 天皇杯・1 日本代表・3
'05 J1・27(1) カップ・4(1) 天皇杯・1 日本代表・1(1)
'06 J1・29(4) カップ・9(3) 天皇杯・0
'07 J1・8(1) カップ・5 天皇杯・2
'08 J1・30(1) カップ・7 天皇杯・3
'09 J1・31(1) カップ・10(2) 天皇杯・3
'10 J1・19(1) カップ・3 天皇杯・2

JFL松本山雅FC

'11 JFL・15(1)



新春ドリームマッチ群馬2009 松田直樹
新春ドリームマッチ群馬2009にて






■特別記事■

 松田直樹メモリアル新春ドリームマッチ群馬出身Jリーガ4-4ナオキフレンズ観戦記UP! (13.1.20UP)

 松田直樹・追悼試合 ナオキフレンズVS横浜マリノスOB観戦記UP! (12.1.22UP)

 2011JFL前期第15節アルテ高崎−松本山雅FC 松田凱旋帰郷!!観戦記UP! (11.6.18UP)

 2010J1第29節アンカー松田・マリノスVS湘南観戦記UP! (10.11.13UP)

 2009J1第18節アルビレックス新潟(FW16大島)VS横浜Fマリノス(MF3松田)観戦記UP! (09.07.19UP)

 2009.1.11新春群馬ドリームマッチ2009 ザスパ1−1群馬チーム観戦記UP! (09.01.11UP)
〜番長・松田の1人舞台〜

 2008J1第10節東京ヴェルディ(MF11大野)VS横浜Fマリノス(FW15大島、MF3松田) 伝統の一戦”クラシコ”観戦記UP! (08.05.03UP)

新春ドリームマッチ群馬2009 松田直樹
新春ドリームマッチ群馬2009にて、同郷の選手達と満面の笑みの松田(中央No.3)





マイアミの奇跡を演出した松田直樹

コロナ禍によりJリーグがまだ再開されない6月頭、松田直樹の地元である群馬の地元紙・上毛新聞のスポーツ版には一面に日本代表のブルーのユニフォームを着た松田直樹の写真と、アトランタ五輪でブラジル代表を破ったマイアミの奇跡の記事が載った。

松田直樹 マイアミの奇跡演出
2020年6月5日の上毛新聞スポーツ版の一面を飾ったオリンピック日本代表での松田直樹

けがの功名というやつか、ここで再び松田直樹の雄姿をここで拝めたのは感慨深い・・・

ということで、せっかくなのでこの松田直樹の応援・紹介ページに記憶しておこうと思う。



キャプテン前園の日本代表、28年ぶりのオリンピック出場へ!!

そもそもマイアミの奇跡に至るまでの道のり、背景として、当時は1996年。

1993年にJリーグが開幕してからまだ3年。

日本のサッカーのレベルもまだまだまこれからという中だったが、しかし国内のサッカー熱は1998年フランスでの初のW杯出場に向けて絶頂。
その前哨戦となる、プレW杯として、この1996年のオリンピック代表は非常に熱狂的な熱視線が向けられていた。

そのメンバーにいた松田直樹はまだ前橋育英を卒業してマリノスに入団して2年目、まだ若く、そのころは無名だったベルマーレの中田英寿も弱冠19歳だ。

よってチームの主軸といえば、なんといってもキャプテン前園真聖。
自分がちょうどその頃にプロ野球ファンからJリーグファンになりつつあり、そして注目したチームがたまたま横浜フリューゲルスだったため、この前園のチームであるオリンピック代表は前園のイメージしかなかった。

だが、そこに確かにまだ19歳の松田直樹はメンバーにいた。

日本のスタメンは以下の通り

9城彰二
14中田英寿 7前園真聖
6服部年宏        17路木龍次
10遠藤彰弘 8伊藤輝悦

13松田直樹 5田中誠 3鈴木秀人

1川口能活


ベンチにはFW16松原良香、MF15秋葉忠宏、MF4廣長優志、MF11森岡茂、DF12上村健一、DF2白井博幸、GK18下田崇

監督は西野朗



・・・今思えばなかなかのスタメンだが、まだ皆若く、実績のある選手というと城彰二や前園くらいだけだったような記憶がある。
遠藤ヤットの兄、マリノスの彰弘が10番を付けているのも興味深い。
また、ベンチには後にザスパの監督にもなる秋葉忠宏もいる。


そんな1996年のオリンピック代表は、あのエース釜本らの伝説の銅メダルを獲得した1968年のメキシコシティ五輪以来、28年ぶりのオリンピック出場を、アジア最終予選マレーシアの地でサウジアラビアに勝ち決める事となる。

その2−1で勝ったサウジ戦で2得点を決めたのが前園。
マレーシアという東南アジアならではの足の長い芝生に対するため、当時はなるべくワンタッチで、ダイレクトに繋げる攻撃を意識したということで、中盤から全てダイレクトに繋げたパスから抜け出た前園の最後のゴールは圧巻の一言だった。

前園の2点リードによって日本はどうしても下がりがちとなり、後半はサウジの猛攻を受けて、ついに1点返されてしまうも、苦しみながらも時間を稼ぎもぎとった、歓喜の2−1での勝利だった。
(ちなみにこの最終予選、松田は高熱などでの入院のため参加できなかった)

そんな、ようやく28年ぶりに掴んだ1996アトランタオリンピックの切符。
しかし同じ予選リーグに入ったチームは、王者ブラジルだった。



タレント集団王者ブラジル

対するブラジル代表は、本当にえげつない。
え?本当にこんなメンバーだったの?と今思うと名前だけで白旗を挙げたくなる。

11サビオ 7ベベット

9ジュニーニョパウリスタ 10リバウド
8アマウラ 5フラウビオコンセイソン

6ロベルトカルロス     2ゼマリア
3アウダイール 4ロナウド

1ジーダ


ベンチにはFW18ロナウジーニョ、FW17ルイゾン、MF16マルセリーニョパウリスタ、MF15ゼリアス、MF13ナルシーゾドスサントス、DF14アンドレルイスモレイラ、GK12ダンルレイ。

監督はマリオザガロ



おいおい、ベンチにロナウジーニョがいるのかよ・・・
そのロナウジーニョをベンチに押しのけてしまうほどの、サビオ、ベベッド、リバウドら攻撃陣がえげつなく、そして両サイドにはゼマリアと、あのロベルトカルロス??

攻撃力が半端ない・・・

なるほど、当時のまだアマチュアからようやく脱してきたばかりの日本にとって、あまりに絶望的なメンバーであり、特に攻撃陣は既にフル代表でも活躍していたという、まさにタレント集団。

ちなみに、当時のブラジルはフル代表の強化のためにこのアトランタ五輪を位置付けていたらしく、ベベット、リバウド、アウダイールはオーバーエイジ枠。
(日本は西野監督がU−23の若手主体の編成にこだわり、オーバーエイジ枠を敢えて使わなかった。最終予選では参加できなかった松田を使いたかったため、と上毛新聞の記事にもある。)

それに対し当時はようやく28年ぶりにオリンピック出場を果たした、プロ化してまだ3年しか経っていない日本代表にとっては、まさに未知の相手といっていい。




マイアミの地で見事な守備を演じた松田直樹

アトランタオリンピックでの対戦の地・マイアミオレンジボウル。

日本は鈴木秀人と松田直樹の2ストッパーにブラジルの強力な2トップのマークを任せ、スイーパー田中誠とGK川口、そして服部などチーム全員が守備の作戦を徹底させ、特に松田直樹はスタメンではサビオのマークを、後半19分からは代わって入ったロナウジーニョのマークを、天性のポジショニングと身体能力の高さでやり遂げた。

前半から試合を通じて圧されまくり、GK川口は28本ものシュートを止めたという。

そして攻めても攻めてもなぜか点が入らない、運の悪さも加わった最強軍団ブラジルにいい加減焦りと疲労が見える後半27分、路木からの相手DFの裏を狙ったループパスに、城が走り込んでいったところで相手のDFアウダイールとGKジーダの、急造ゆえの連携が不十分だった両選手が交錯するミスが加わり、そのこぼれ球を伊東テルが押し込む貴重な1点を守り切り、その後もマイアミの奇跡として長く語り継がれる歴史的な1−0での勝利をつかみ取った。

守備に徹した日本の作戦も見事だったが、オーバーエイジ枠まで蹴ってでも、松田直樹の身体能力の高い守備力を重視した西野監督の作戦も見事にはまったわけだ。


やはり松田というDFは凄かった。

その松田を慕って、松田と一緒にサッカーがしたいということで、後にマリノスに中澤が入団し、松田・中澤の強力なセンターバックラインが形成された。

その後、私もこのHPで散々書いてきたとおり、マリノスの松田・中澤こそがそのまま日本代表のセンターバックだと。
かつて井原・小村がそうであったように、マリノスのセンターバックとはそういうものだと。

それなのにジーコは2006ドイツW杯予選リーグで中澤・宮本で組ませ、オーストラリア相手に高さで完敗して敗北した。

なぜ、なんで松田を使わなかったのか・・・
今でも無念でならない・・・


ここでまた、松田直樹という希代のDFを振り返られたことを幸せに思う。

松田直樹よ、永遠に




(20.6.13)






こんな事が・・・突然の訃報・・・

まだ言葉が見つかりません・・・
何を書いていいのかさっぱりわからないけど、とにかく書いていくうちに言葉を見つけます。




8月2日にJFL松本山雅での練習開始30分後の9:30頃、突然ヤバイという言葉と共に倒れた未だ34歳の松田直樹は心筋梗塞となり、そのまま病院へ。

心臓の鼓動はいったん戻ったものの、意識は戻らないまま8月4日の今日、訃報が届く事となった・・・




私にとっては、心の師と仰ぐ山口素弘の次に大好きな、群馬の英雄にして、漢(おとこ)の中の漢、松田直樹。

闘争人という本を自ら出版するほどのJリーグきっての熱血漢は、誰よりも勝負にこだわり、日本代表時代にフランス代表に敗れたサンドニの悲劇以来、例え世界が相手であろうとも絶対負けられないと、乳酸が溜まった状態からのダッシュのトレーニングを積むなど、まさに戦う男そのままの人生だった。


勝負に徹するがゆえに、何度もクラブや代表の歴代の指揮官達と衝突し、ジーコの時にはついに代表を追放されるという不当な扱いもあった。
松田を重用し初のベスト16という快挙を遂げたトルシエと、松田を実力以外のところで追放し、そしてフィジカルも高さも無い守備陣により崩壊したジーコとの差がここに明確にある。


誰よりも早く自ら真っ先に潰しにいき、いち早く相手の攻撃の芽をつむる、今では当たり前の前目のリベロのプレースタイルを、スイーパーとして一歩下がってカバーに徹する全盛期の中、その積極的なディフェンスで体得し、そして30歳を過ぎた頃にはボランチのポジションで新たな境地を切り開いた。



本当に、日本のサッカー界の成長をそのまま体現したような、日本のディフェンスに常に革命をもたらす先進的なDFが松田だった。


昨シーズン、16年間愛し続けたマリノスから裏切られ、途方にくれ、たくさんのサポータから悔やまれJリーグを去る事を自ら選び、全てを捨てて夢を掴むチームの熱意に惚れ込んでJFLの松本に移籍先を選んだ松田は、まさに松田らしい男気ある決断だった。



昨年はJ1の湘南戦で松田を観るために平塚に行った。

 2010J1第29節アンカー松田・マリノスVS湘南観戦記UP! (10.11.13UP)

今年は6月に、アルテ高崎戦で凱旋帰郷した松田を観に行った。
群馬サカラグという、距離の近いスタジアムで松田の姿を観る事ができたのはラッキーだった。

 2011JFL前期第15節アルテ高崎−松本山雅FC 松田凱旋帰郷!!観戦記UP! (11.6.18UP)

アルテ高崎−松本山雅戦 松田直樹
2011.6.12JFLアルテ高崎−松本山雅FC 右サイドからボールを送る松田(右)

その松田の衰えぬプレーをみて、そして着実に強くなっている松本というチームをみて、今年必ずやJリーグに上がり、来年にはザスパと隣の敷島競技場での戦いでもう一度会う事ができるだろうと確信し、今から楽しみだった。


しかし、、、、まさかあれが自分にとって最後の松田の勇姿になろうとは・・・




私は8年前にも同じような(医学的には違うのかもしれないが私には分からない)心筋梗塞で唯一無二の親友を亡くしている。

もう年度末になり、仕事が多忙を極めた親友と、3月最後の方でも仕事にきりがついたらラストスキーに行こうと話していた矢先だった。

あれはくしも嫁の実家の方の墓参りをしていた3月20日だった。

ちょうど墓参りを終え、墓場のメイン通りを駐車場に向けて歩いている時だった。

まさかあの時携帯に入ってきた親友の名前の着信の声が、突然の訃報を告げる親友のお父さんからのものであるなんて、誰が予想できただろうか・・・




人間、あまりに突然の事だと心の準備も無いので意外にもその時は感情はわいてこないものだ。

実際、渋川の国立病院で親友の血の気の失せた顔を見ても、何の実感も沸かなかった。

そして、とりあえず吹っ切るように、まだ子供もいなかった私たち夫婦がその日の夜に見に行った映画のラストシーン・・・主人公は故郷に帰り、皆の祝福を受けたが・・・しかし親友はもう帰ってこない・・・・・・・・・


それまで一滴の涙も流してこなかった自分を突然の激情が襲った。

短く、一瞬かがみ込んで嗚咽をもらしながら叫んだ映画館での駐車場・・・

隣にいた嫁がひどく狼狽した姿を一瞬認識し、すぐに持ち直したが、あの日の事を思い出すだけで、名優でも無いのにいつでも私は泣くことができる。




もう少し前の時はX(エックス)のhideの訃報を突然カラオケボックスで聞いた事を思い出す。
私と弟(弟はファンクラブに入ってまだ1ヶ月足らずだった)の兄弟で大好きだったhideの突然の死は、当時二十歳そこそこだった私の蒼い魂を痛烈に揺さぶった。



よく、こういう場面に出くわすと、神様は不公平だとかの声が出てくるものだが、本当に、なんでわざわざそこに死がやってくるのかが全くわからない。
理解の範疇を越えている。

しかし、現にその現実はそこにある。

私は神様は不公平だとは思わないが、結局はこれが人間という100年に満たない人生の中でのアクセントなのだろうか・・・



・・・いずれにせよ、松田にしろ、hideにしろ、親友にしろ、日常の中で思い出す度に、もし生きていたなら、いったい自分はどれだけの数多くの貴重なモノを彼らから得られただろうかと、痛烈に思い返す。

死というものはそういうものだろう。

結局死んだら終わり、というまさにそのとおりで、死んだらもう何も残せない。

その人がどんなに才能や可能性があろうとも、しかしそれを紡ぎ出す事はもう叶わない。



そして人は、結局死んだ人にかじり続けてはいられない。
せめてそれまでに残してくれた貴重な財産を大事にしながら、それを糧にしてその人の分まで頑張って生きていかなければいけない。



同じく群馬のサッカーが大好きで、よく一緒にJリーグを観に行った親友にとっても、この松田の突然の訃報は私と同様に悲しんでくれる事だろう。

ちょうど来週土曜に仲間達と一緒に墓参りに行く。
親友と松田に関する思い出話で盛り上がろう。








・・・本当に、何を言っていいのかわからない。

松田に向けての思いは既に以下に綴った過去の文章で十分書いていると思う。

ジーコに潰された夢を、松田はその後成就できただろうか。

その燃え残った最後の夢を、松本のJリーグ昇格にかぶせていたのではないか。

その無念さが残念でならない。

だが、その3番が似合う大きな背中に、何度魂を揺さぶられる感動をもらっただろうか。

松田と同じ群馬の出身を心から誇りに思う。

郷土の誇り、松田直樹・・・

本当にお疲れ様。
本当に有り難う。

孤高だ。

英雄とは常に孤高だ。


誰の助けもいらない。

常にその個の存在こそが重要だ。

だからこそ英雄だ。

だからこそ、人を惹き付ける魅力がある。



松田直樹という男は、確実にその生き様全てにおいて大事なモノを残してくれた。

そして松田直樹を愛する我々は、その大事なモノを大切にし、そして糧としなければ、行動に移せなければ意味がない。

その行動を遂げることこそが、松田直樹への最大の弔いとなるだろう。








松田直樹、涙のマリノスサポータとの最後の別れ 2010シーズンラストゲームにて
松田直樹、涙のマリノスサポータとの最後の別れ 2010シーズンラストゲームにて





ナ〜オ〜キ

ナ〜オ〜キ

ナ〜オ〜キ

ナオキ、オレッ!!








(11.8.4)






新たな移籍先は・・・JFL松本???

マリノスから解雇通告を受けた松田の新天地がどこになるかは、ザスパ草津が当初からいち早くオファーを出しているだけあってずっと気をもんでいたが、年明けのニュースではセレッソ大阪に移籍というニュースを目にした。

ああ、なるほど、マルチネス、羽田といなくなったセレッソとしては確かに松田級のアンカーが欲しいなと。

しかもセレッソは2010シーズン3位に入るという躍進を遂げ、今シーズンはACLでも戦わないといけないため、それくらいの戦力の増強はしないと戦い抜けないだろうと。

まあザスパに来なかったのは残念だけど、セレッソに行くのならば仕方ない、これは今シーズンなかなかに期待できそうだな、と納得していた。



・・・だが、昨日舞い込んできた寝耳に水の特報、松田直樹がJFL松本山雅(やまが)FCに移籍、という内容には本当に驚いた。


ま、、、まさかJFLに行くとは、、、、、、


というか、セレッソなら分かるが、なぜザスパはJFLのチームに獲得競争で負けなければいけないのか・・・???

正直、私としては最初かなりの落胆だった。



チームの環境、もしくは姿勢の問題??

だが、考えてみればザスパ草津は松田を解雇したマリノスと同様、チームの功労者であるベテランFW高田を解雇したばかり。

同じ扱いを受けた松田からすれば、こういった選手に何の温情も示さないチームに行くのは嫌だろう。
自分としても、なんだか高田を追い出して松田を獲得したような事になればスッキリしなかっただろう。

まあこれが直接の原因ではないだろうが、高田の他にも廣山を切るなど、ベテランに対し何の温情もないチームでは、交渉の場でどの程度の事が言えるのか高(たか)が知れている。


また、現実問題としてやはり環境面がまだ未整備。

未だに天然芝の自前練習コートも無く、その他の設備面や環境はまだまだJリーグクラブの中でも最低レベルだろうし、やはり金額面でもなかなか希望の額は提示できなかったのではないだろうか。

ザスパが穫れれば、この地元群馬のヒーロー・松田の存在は名実共に非常に大きな戦力となった事は間違いないだろうが・・・
本当に残念な限りだ。



松本という魅惑のチーム力

そんな低条件のザスパよりも、やはり今年絶対にJリーグに昇格する、という強い意志を持った松本山雅に興味を引くのは、かつて地域リーグだったザスパにGK小島や、DF奥野が来た事とかぶる。
自分の力でクラブをJリーグに上げる。
そんな夢を追える事はどのサッカーマンでも一生に一度出来るかどうか。
やはり夢を追う商売である限りは、そういった夢に惹かれるのも当然だ。


さて、この松本山雅FCというチームは既に2年JFLで戦っているが、大黒柱であったFW柿本をはじめ、ヴェルディから弦巻、徳島から石田、横浜FCから須藤右介などの実力派の元Jリーガーを年々補強し、2010シーズンは7位に付けた。
今シーズンも柿本が引退、石田が契約満了となっているが、岐阜、水戸にいた片山や元山形の渡辺匠など積極的に補強しており、弦巻と共にヴェルディから完全移籍となった飯田、そして松田を含めてボランチとセンターバックの4人の強力なボックスを形成する事が可能となる。
このセンターのボックスの固さは下手なJ2のチームを凌駕する。

厳しく長いJFLのシーズンを戦うにあたって、まず守備のセンターラインをしっかりと形成できる事は大きいだろう。

そして片山、北村、弦巻ら、テクニック、スピード共に十分な攻撃陣・・・なんと魅惑的な戦力だろうか。
正直、ザスパとガチで勝負しても相当いい勝負になる事だろう。


また、松本にはなんといってもあのアルウィン(長野県松本平広域公園総合球技場)がある。
収容人数2万人という、J1の規格を軽くクリアしたオーロラビジョン付きのスタジアムで、しかもトラックのある陸上競技場ではなく、”球技場”、つまりサッカー、ラグビー専用グランドという、鹿島スタジアム、さいたまスタジアムに次ぐサッカースタジアムを誇り、数年前まではザスパも年に1回ホームスタジアムとして使用していた。
(あれは前橋からは遠かった・・・(遠い目)どこがホームやねん!と思うほどの距離だった)


この素晴らしい環境、そして長野県で初のプロチームを目指すという士気の高さもあって、昨年の平均観客動員数は5000人を超え、あとは戦績だけ収めればJリーグ入りを軽くクリアするという土壌、土台がある。

松本アルウィンオーロラビジョン
アルウィンのオーロラビジョン



1年でJリーグに昇格し、松田再びJの舞台へ・・・

これだけの戦力を擁し、アルウィンという環境、士気の高いサッカー熱、そして松田という強力な求心力を得た松本はおそらく今年大躍進を遂げ、昇格の条件を満たすだけの順位を収めるだろう。
そして1年でJリーグに昇格すれば、来年再び松田はJの舞台へ戻る事となり、ザスパ草津も松田と戦える日が来るわけだ。

とりあえず今年はアルテ高崎との対戦は絶対に見逃せないし、来年のJ2でのザスパとの戦いも楽しみにしたい。
そう考えれば、最初はショックを受けた松田のJFL移籍だったが、まだまだ松田への夢は尽きない。

少なくとも35歳まで現役を続けると公言した松田のプレーはまだまだ観る事ができそうだ。




松本と長野の強烈なライバル意識

ところで長野県、松本の地域といえば、長野の地域とのライバル意識は相当に高いと聞く。
そもそも松本城を持つ城下町の松本市がありながら、なぜ”格下”(と松本の人は全員が思っている)の長野市の名前で長野県などと名付けられているのかを松本地域は誰も納得していない。
名目上は長野市が県庁所在地かもしれないが、それは県北だけの話であり、県南の実質の県庁所在地は絶対に松本市であるといった事を譲らない。

これは群馬でも前橋と高崎が似たようなところはあるが、地理的にも峠を隔てている松本と長野とではこの意識は歴然として大きいと想像に難くない。
(松本出身の田中康夫が知事の時に、長野県を信州県に改名しようとブチ上げたように、そもそも松本の人は長野県という名称を認めておらず、どこ出身?と聞けば”信州”と答える人が多いという)


松本城
名城・松本城


松本山雅FCがこれだけ大躍進を遂げているのも、やはり長野に先んじてプロスポーツチームを持てる、先にJリーグに行ける、という競争意識があるのは当然の事であり、そして長野もやはり松本山雅がいよいよJリーグに行く手前にあるということで本気モードとなり、AC長野パルセイロも猛烈な追い上げで今年からのJFL参入を決めた。

この長野パルセイロは元横浜FLUGELSの名DF薩川が監督を務め、元ザスパ草津のDF籾谷、チャレンジャーズチームにいたFW佐藤大典と、ザスパとの関わりも深く、こちらも今年のアルテとの戦いでの来県時は楽しみなところ。

今シーズンの松本と長野との信州ダービーは熾烈を極める事だろう。


そんな環境の中、松田は今シーズンJFLで戦う事となる。
チームに求められ、そして1人の漢(おとこ)としてチームを上に上げるために。
まだまだ松田が現役でいてくれる限り、私はこの漢(おとこ)の中の漢を応援していく。












(11.1.11)






青天の霹靂・・・2010年シーズンオフ、松田、マリノスから戦力外通告

さすがにびっくりしたニュースだった。

時を同じくして我らがザスパ草津では永遠のエースFW高田らを非情の戦力外通告を出したばかりのショックに揺れる中、なんと横浜の地ではチームの大黒柱である松田が戦力外通告を受けるという驚きのニュースが舞い込んだ。


松田にとっては悲劇にしかならなかった2006ドイツW杯で私の心も空白となり、このページの更新はしばらく放置し、時折上にリンクを貼っておいた各試合の観戦記をアップしただけだったので、ちょっとその後の4年間の事を総括すると、2006年は念願のキャプテンに就任となりまさにチームの中心、大黒柱として大活躍、この年は得点でも4点を決める。

しかし翌年2007年は怪我で出遅れ、当時の早野監督との確執もあったようでベンチ入りもままならない日々が続き、この年松田は初めて愛するチームからトップ選手として外れる事となる。

だが2008年、桑原監督就任後はMF河合の怪我で空いたアンカーの座に松田を起用する奇策が奏功。

”DFの前にDFがいる”、とチーム内から守備の要として絶対的な信頼を得て活躍。
私としては松田が中盤でボールを扱えるのか?と当初疑問だったが、意外にも大柄な身体をうまく活かしての安定したキープ力は中盤の底で活き、そのままチームに安定感をもたらした。
また、類い希なる経験の豊富さはそのまま戦術眼にもつながり、機を見ての攻め上がりや、最終ラインまでの戻りなど、松田の経験と身体能力の高さ、そして昔からの攻撃参加の鋭さはまさにアンカーにうってつけであり、まさに天職とも思えた。

その後の2009年は正月恒例となっていた新春サッカーマッチで初めて参加してくれて元気な、群馬の絶対的な番長としての姿を披露、その年は監督が代わっても松田はアンカーや、本職のCBとのポジションを入れ替わりながら、チームにとってまさに欠かせない、かけがえのない守備の要の選手として重宝された。



そして2010年、怪我で出遅れる事となったが、第17節からはほとんど不動の存在としてチームに君臨。
W杯で不在がち、コンディションも崩しがちとなったDF中澤の穴を時には埋めるようにセンターバックにも入りながら、基本的にはアンカーとしてチームに貢献、一時はACL出場権を獲得できる3位以内も視野に収めるほどのチームの好調を支えた。




サポータからの大抗議

この年の11月6日第29節湘南ベルマーレとの神奈川ダービーでは湘南サポの友人のつてで観戦する事となり、松田の勇姿を堪能。

詳しくは上記にも同じくリンクを貼っている、下記のページを参照↓
 2010J1第29節アンカー松田・マリノスVS湘南観戦記UP! (10.11.13UP)

実はこの試合の前までは、いい加減33歳を越える年齢もあって、マリノスのユニフォームの松田を観られるチャンスはそう多くはないかもしれない、という危機感もあった私だったが、まさにチームの大黒柱として君臨するその頼もしい姿に、今年の契約もまずは大丈夫だな、と安堵したばかりだった。

この試合の前には平塚競技場であるにもかかわらず、スタジアムの周りはマリノスサポの青いユニフォームばかり。
さすがは神奈川ダービーという感じだったが、それ以上に感じた事は、その背中の番号のかなりの割合が中澤の22番と、松田の3番であること。

ひいき目だったかもしれないが、10人に3人は22番で、3人は3番だった。


やはり高卒以来、16年も同じチームで長く活躍すると、これだけ多くのサポータ、ファンを得るものなんだな〜松田はマリノスサポに愛されているな〜と、同じ郷土人として嬉しい思いだった。



その松田が11月末、急に戦力外通告を受けた。



フロント陣は以前から、松田は永い間チームを支えた功労者であり突然の解雇は無いとアナウンスされていた松田だったのに、若返り、チームを変えるために、というお決まりの文句のもとで突然の解雇。

また解雇の中には同じ群馬出身のMF清水や、松田と同じ元日本代表・FW山瀬兄、長い間マリノスで活躍したFW坂田などの名前もあり、これまであまりこういった突然の解雇宣言の少なかったチーム愛を大事にしてきたと思われたマリノスらしからぬ、本当に突然の方針変更だった。


この非情なる、突然の通告にサポータは大激怒。

特に今期最終節となった12月4日のホーム最終戦では、試合後の木村監督や嘉悦社長のスピーチはサポータからの大ブーイングにかき消され、そのスピーチを押し殺すように永遠にナオキコールが止まない。

セレモニーの後も500人〜数千人のサポーターがそのままゴール裏に座り込み、約6時間後の午後11時半、松田との再契約を求める嘆願書を嘉悦社長に手渡しやっと解散という異例の事件も起きた。

いかにこの解雇がとんでも無いことか。
マリノスサポータにとって憤慨やるかたない事なのかを示した事件だった。



チームとは何か

ザスパ草津でのFW高田の解雇通告もそうだが、そもそもチームとは何なのかという原点を思い返される。

プロサッカーチームとは何をもってして成り立つのか?
存在し得るのか?

それは紛れもなく応援してくれる人々あってこそ成り立つものであり、誰も応援しないようなチームはプロとして、興業として成り立たない。

その応援してくれる人々、つまりサポータにとって何が大事で、何を優先させるべきものなのか、という原点に立ち返る必要がある。

そしてサポータ達はいったい何を応援するのか。

もちろんザスパ草津のように、我らが群馬を代表するチームとして応援もするわけだが、実際にはピッチ上で必死になってプレーする選手達を応援する。
選手達を鼓舞し、そして最高の結果を引き出すためにサポータ達は声を振り上げる。


その精魂込めて応援してきた、しかも16年間もの長い間応援し続けてきた松田ともなれば、もはやファミリーのようなものであり、松田のようなマリノスを、チームを象徴する選手が活躍するからこそ、サポータはそれを拠り所に更にチームを愛し応援できる。

それが毎年のように主力選手が入れ替わり、どんどん選手を切っていってしまようなクラブは、まず第一に選手を愛するサポータ、ファンからは徐々に愛想を尽かされる。
例えば東京ヴェルディなどは良い例であり、ヴェルディの場合は地元たる川崎も切り、東京からもFC東京の陰に隠れ、そして選手達は1年でコロコロ変わり、ではいったいサポータ達は何を根拠に、何を拠り所に応援すればいいのか、指標を失う。
いつまでも読売時代の過去の栄光にばかりすがっていては明日はない。


それでもプロはプロだ。

それは分かっている。

チームも決して安くはない給料を払わなければいけないのだから、費用対効果を考えるならば、やはり高額になってきたベテランよりも、将来に可能性のある若手に投資していきたいのは当然だ。

だが、松田はここ数年のアンカーとしての活躍でも示しているとおり、まだまだ選手として現役であり、チームの主軸として活躍していた。

加齢による見切りはいずれ来るにせよ、しかしまだ来年、いや再来年くらいまでは、これまでの松田のチームに対する功労からしても契約は継続させるのが当然であり、あまりにも早い見切りにこれだけサポータも憤慨したわけだ。


プロとして結果を示しながら、果たしてプロとして責務を果たしているのか分からないフロントに無情にも一方的にクビを切られる。


かつて名古屋グランパスが突然一方的に望月、平野、大岩の主力3選手を切った時もそうだったが、時にこういった傲慢な態度を見せる経営陣に、我々サポータの心が踏みにじられるのはもうたくさんだ。

マリノスサポもホーム最終戦では社長などの名前を挙げ、”チームはお前達のおもちゃじゃない”というメッセージを掲げたらしいが、まさにそのとおりだ。

言わずもがな、私は経営陣達の勝手な思い一つで横浜フリューゲルスという大切なチームを丸々失った。
今でも全日空、ANAのロゴをみる度に反吐が出る。
もういい加減、横浜Fマリノスは、神聖なる”F”の字を横浜FCにでも譲るべきだ。
いつまでつまらない全日空の権利の主張でFの字を手放さないつもりなんだ。
企業のクリーンさを謳いたいなら、潔く、そして気前よく笑顔でフリエたる横浜FCにFの名を、フリューゲルスの名称権を譲るべきだ。
(まあ、横浜FC側がフリエという共通の愛称とは別に、フリューゲルスとの相関性、フリューゲルスの後継としては正式には認めていないので、いろいろあるのだろうが)

少なくとも、いい加減横浜FマリノスがFの字をとれば、晴れて横浜FCは略称を”横F”とできる。
今でも略称が横Cなどとせざるを得ない場合があるが、なんたる無様で迷惑な事か。
そしてその事で誰もハッピーにはなれない。そして多くの人が迷惑を被っている。


やや話が逸れてしまったが、もういい加減にしてくれ。
所詮マリノスはマリノスか。
マリノスはゴーン社長のもと冷酷な削減の憂き目にあった日産とは違うと思っていたが、所詮親企業が親企業ならこうなるか。




松田の去就はいかに?

しばらく動向を見守ってきたが、どうやらマリノスはこの文章を書いている12月14日時点でまだ松田との再契約をする気は無いらしく、その代わりとしてエスパルスから同じ前橋育英出身の後輩、DF青山を獲得し、その他の交渉に躍起になっている。

松田も代理人と契約し、次のチームを模索し始めている。


そんな中、ザスパ草津の植木GMは、金額の点さえ折り合えば、是非とも松田を獲得したいとどのチームにも先だっていち早く声明を出している。


松田がザスパに・・・・・・・



そんな夢のような事が、ザスパが発足する前から群馬にもしもプロチームがあったならばと夢にまで見ていた事が本当に現実に起こるのか分からないが、現に松田の年齢と、来年以降主力として活躍できるチーム、”場”としては、ちょっと同じJ1チームではもう厳しい。

ではJ2なら、となると、どうせなら故郷であり、持ち家のある横浜からもある程度近い群馬のチームを選ぶ事は決して悪くない条件だ。
本当に金額の面さえ折り合えば、決して不可能な事ではなく、ザスパとしてはDFチカの放出以来長年の懸案事項となっている、高さと屈強な”壁”としての能力を併せ持つ、永く切望した絶対的なセンターバックの補強に一気に目途がつく。

まさに自分としてはMF松下の補強以来のザスパの快挙、念願成就となる。


しかし、それはまだ分からない話。

本当に松田ほどの選手が、まだまだ環境面で劣るザスパに来てくれるのかも分からないし、その可能性はまだまだ低い。

未だ私はFW高田との再契約の道もあると信じているし、それ以上にマリノスサポも、松田の再契約をまだまだ諦めてはいないだろう。


マリノスにとっての松田にせよ、ザスパにとっての高田にせよ、チームは、フロントはもっとチームの根幹たる部分を見直し、コストカット、若返りに走ればいいというものだけでは無い、もっと大事な事に気づいて欲しい。

私は選手を使い捨てにするようなクラブを、生涯応援できるチームとはとても思えない。

応援する選手達はサポータの心の一部分だ。
そんな心を踏みにじるクラブを誰が応援できようか。


クラブはお前らのおもちゃじゃない。






(10.12.14)






2006年のジーコジャパン代表時代や、2005年のこの応援ページを立ち上げた当初の紹介文がここにあったのですが、なんと容量オーバーのせいかHPにアップできないため、下記のページに引っ越ししておきました。
そんな前の記事まで興味のある方は下からお入り下さい↓


 2006年ジーコジャパン代表時代や2005年当初の紹介文ページ(1/2)はこちらから 


天使



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