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元前橋育英キャプテン
育英黄金期”たった一人の2年生”

万能のボランチ 青木 剛

についてのページ



横棒


鹿島アントラーズ MF15
高いロングボールの精度、展開力、守備力を併せ持つ万能の青木


青木 剛(あおき たけし)
生年月日 1982年9月28日
身長/体重 183cm/75kg
血液型 O型
出身地 群馬県 高崎市
利き足 右

〜経歴〜
前橋育英('98〜'01 '00選手権連続ベスト4)U-19
鹿島アントラーズ('01〜)

−公式戦戦績−
(数字が出場数 ( )内は得点)

J1鹿島
'01 J1・8 
'02 J1・13 カップ・7 天皇杯・4 U-21
'03 J1・27(1) カップ・4 天皇杯・4(1) 五輪代表
'04 J1・20 カップ・6 天皇杯・3 五輪代表
'05 J1・32 カップ・6 天皇杯・2 
'06 J1・31(2) カップ・6 天皇杯・4 
'07 J1・30 カップ・10 天皇杯・5 
'08 J1・34(2) カップ・2 天皇杯・2 ACL・8 日本代表・1
'09 J1・33 カップ・2 天皇杯・3 ACL・6 日本代表・1
'10 J1・23 カップ・2 天皇杯・5 ACL・6
'11 J1・23 カップ・3 天皇杯・3 ACL・7
'12 J1・28 カップ・9 天皇杯・5(1)
'13 J1・ カップ・ 天皇杯・


 
2014.1.12新春ドリームマッチ群馬2014−remember松田直樹−
MF5青木剛とMF16本山の、普段は見られない鹿島アントラーズ同士の対決

鹿島MF青木剛
2013.1.20松田直樹メモリアル新春ドリームマッチ群馬出身チームにて、キャプテンマークを巻き中田英寿が率いるナオキフレンズチームと対戦するMF15青木剛







2013〜

■特別記事■

 松田直樹メモリアル新春ドリームマッチ群馬2013 群馬県出身チームでキャプテンとして活躍する青木剛!(13.1.20) 

 
後半はセンターバックに入ったMF15青木剛とFW9ゴン中山





2011〜2012年の総括 厳しいポジション争いの中でも、CBとして確立

もう最近はJ2のザスパ草津を追うだけでも大変で、なかなかJ1の方のチェックが出来ない日々が続いていますが、とりあえず定期的にこの応援ページも更新せねば・・・

ということで、あまり詳しくないので、忘れないうちに2年間の青木剛の総括を、あくまでまとめ的に書いておきます。



2011年は日本代表にも選出された清水の本田拓也が加入し、更に山形から増田も復帰。
更に青森山田高からは鹿島の明日を担う人材として柴崎岳も加入し、当然中田浩二も健在で、かなりポジション争いは厳しいものだった。

だが、シーズンの幕を切るゼロックススーパー杯では、チーム事情もあってボランチのポジションを確保し存在感を見せた。

以下がその記事↓

■特別記事■

 2011ゼロックススーパーカップ鹿島1-1(PK1-3)名古屋・青木フル出場で存在感を見せる!!(11.2.26) 


未だにチームの核として重要な位置を占めるセントラルMF小笠原の相棒として、小笠原の出来ない軌道衛星的な運動量、中盤の潰し、競り合いといった役割をあまりに的確にこなし、やはり鹿島のアンカーとしては青木以上の存在などあるはずもないと確信させる働きぶりでシーズン中盤まで活躍した。




2011途中からはセンターバックとしてのポジションを確立

2011年は主に青木がボランチ、センターバックに中田浩二か伊野波という組み合わせが続いたが、夏場になって中田浩二が怪我を負い、伊野波も海外に行ってしまったため、青木がセンターバックを務めるようになる。

そして、入れ替わるようにボランチのポジションを確立させていったのが復帰の増田であり、本田は怪我で2011シーズンを棒に振ったものの、次第に青木はボランチとしてではなく、いつの間にかセンターバック要員となっていった感がある。

本当に鹿島というチームは不思議なチームで、このアンカーとセンターバックのポジションが流動的で不思議なチームというか、やはり層が厚い。



そして2012年となったが、いよいよアンカー、センターバックと鹿島は更に層も厚くなり、特にセンターバックにはオリンピック代表キャプテンの山村が加入。
ジョルジーニョ監督はシーズン当初から鹿島の次世代の守備陣を担わせるべく、この山村を起用し続け、青木は必然的にベンチからのスタートで、またも途中からの守備固めが多くなった。

だが、その山村がオリンピックに専念となり、更に立て続けに夏場の終わりに骨折の大怪我で離脱すると、青木は再びセンターバックの座に返り咲く事となる。

チームはナビスコ杯を2011年、2012年と連覇するものの、リーグ戦では一時降格争いにまで首を突っ込むほど低迷し、初の二ケタ順位で終了という苦汁をなめさせられる。

これは鹿島というチームが、明らかに現在世代交代途中であり、1トップとしていよいよ頭角を表したFW大迫、レフティー遠藤、中盤ならば前でも後ろでもこなす柴崎岳、守備の山村と、今後の鹿島の将来を担う若き軸を大きく育てるための産みの苦しみのシーズンだったと言える。


そんな中でも、鹿島はようやく終盤に鹿島らしい攻守に安定した戦いを見せるようになり、その中で青木も岩政と共にしっかりと鹿島独特のゴール前の堅固な鍵をかける役を全う。

その鹿島2012シーズン最後の試合となった天皇杯の戦いは以下のとおり↓

■特別記事■

 2012天皇杯・準決勝 ガンバ大阪1-0鹿島アントラーズ 青木剛、CBで鹿島のゴールを堅固に守る!!(12.12.30) 


やはり青木という男はセンターバックとしても安定感のある選手だな〜と実感。

2013シーズンは、ボランチには柴崎岳、センターバックには山村という絶対的な若手が君臨する事となるが、柴崎は前のポジションでも頭角を出してきており、青木としてはむしろ柴崎を前に押しやるほどの存在感を示したいところ。
小笠原がいよいよピークを過ぎてくるのではとは思えるが、増田、本田もいるし、鹿島というチームの中でどれだけのポジションを確立できるかは、またも厳しいシーズンが予想されるが、しかし青木という男が折れる事は無い。

まだ30歳の青木の今後の活躍に期待していきたい。



(12.12.30UP)






2009〜2010年の総括 中田浩二にポジション奪われるも最後の天皇杯決勝で存在感

2008年は日本代表にも選ばれ、そしてチームの絶対的なレギュラーとして鹿島の2連覇を達成に貢献するなどまさに選手としてのピークを迎えたと下記の2008シーズンの総括では書いたが、その後の2009シーズン以降は暗雲のシーズンとなってしまった。

2009シーズンも夏まではこれまでと同様にレギュラーとしてボランチでプレーするものの、2連覇を既に成し遂げ成熟期を過ぎた頃の鹿島から覇気のようなものが消えつつあったのか、今ひとつ波に乗れない時期が続く。

ここでオリヴェイラ監督もチームにメスを入れるようになり、その一つの改造がアンカーを青木に代えて2008シーズン途中から鹿島に復帰した中田浩二を起用する事だった。


皮肉にも、その後鹿島はMF野沢の活躍などもあってしぶとく勝ちはじめ、ライバルチーム達もまだ名古屋がストイコビッチ監督に代わったばかりという事もあってまだ成熟しておらず、レッズ、ガンバはチームの成熟期を過ぎて世代交代の苦しみにあえぎ、アジア制覇との二兎を追った川崎は結局悪しき伝統であるノータイトル記録を更新してしまうという対抗馬の本命不在という事もあって、ついには前人未踏の3連勝を成し遂げる事となった。



2010シーズンはベンチ起用の我慢のシーズン

そして2010シーズンも当然2009シーズンの後半の戦い方を継承する形でスタート。
ここで小笠原と中田浩二の2ボランチはもはや既定路線となっていまい、2CBも岩政、伊野波で全く問題ないため、CBとしての出場枠も無かった。
しかし鹿島はシーズン中盤までは4連覇もあるかと思うほど好調をキープしたが、夏場を過ぎると中盤の運動量低下や決定力不足に陥り、シーズン通して12引き分けと勝ちきれない試合ばかりが続き、ストイコビッチ監督の就任2年目で新戦力のダニルソンらの活躍で勢いに乗る名古屋の陰に完全に隠れる形で結局は4位という残念な成績でシーズンを終える。

青木も常にベンチには入るものの、後半30分での守備固め、中盤の運動量補強のために入る事ばかりでスタメンで出られたのはナビスコ杯のみ。
本当に不完全燃焼のシーズンであり、なぜ夏場を過ぎたあたりのレギュラー陣に疲労がみられるところで青木を使わないのか、私も歯ぎしりをする思いだった。




最後の頼みの綱、天皇杯

そんな不調に陥った鹿島だったが、チーム以上にサポータが黙ってはいない。
昨年まで3連覇を成し遂げたチームが、J2から復帰したばかりのセレッソにまくられる形でなんと4位という体たらくに終わり、ACL、ナビスコ杯も敗退。
3位までに与えられる翌年のACL出場権すら手に入らないという事では暴動も起きかねない失態。


そういった背景もあり、最後の最後に残った天皇杯は、今シーズンのタイトル奪取のラストチャンスであり、しかも優勝すればACL出場権も手に入れられるという、絶対に外せない大会となった。

順調に勝ち上がっていった鹿島だったが、しかし準々決勝でアクシデントがあり、DFラインの要・代表にも選ばれた岩政が怪我を負って準決勝が絶望的。

ここで鹿島は今シーズン限りで現役引退となる大岩に期待がかかる事となったが、準決勝のFC東京戦で、J2降格が決まったFC東京相手に前半は非常に苦戦を強いられ、特にFWに起用された鈴木達也らのスピードに大岩らがついていけず、ついに前半終盤に平山に先制点を決められてしまう。

やはり引退間際でシーズンのピークも越えた大岩にとっては厳しい状況であり、オリヴェイラ監督はハーフタイムで交代を敢行。

ここで青木が投入され、青木がボランチに、中田浩二はCBに下がる事でFC東京に対し守備が対応できるようになり、結局その後の逆転勝利に繋がった。



最後の天皇杯決勝で存在感を発揮

そしてACLが懸かった決勝は、同じくACL出場権を得たい清水エスパルスとの戦いとなり、準決勝の後半と同じメンバーで臨んだ鹿島の青木は持ち前のクレバーな守備で相手の2列目からの飛び出しなどに粘り強く対応し、中田浩二、伊野波らの守備ラインと堅固なセンターのボックスを形成。
特に前半などはほとんど清水に攻撃らしい攻撃を許さなかった。


詳しくは下記の観戦記ページを参照↓
 2010天皇杯決勝 鹿島アントラーズVS清水エスパルス MF青木アンカーで活躍し優勝ACL出場権奪取!! 
(11.1.1UP)


守備が安定すれば攻撃も効率良い攻めが出来るようになるもので、青木も機を見ての前線への攻撃参加やミドルシュートなどで攻撃に厚みをもたせる。

これが今シーズン、ほとんどスタメンで出られなかった選手なのか?と思うほどの攻守に安定したプレーぶりはさすが青木だった。


こうした青木の活躍もあって鹿島は今年最後のタイトルのチャンスを掴み、天皇杯優勝と共に2011シーズンのACL出場権も手に入れた。


2011年はACLも含め過密日程となる中、青木にもまたチャンスも巡ってくると思われる。
だが、現在鹿島は清水の日本代表に選ばれたMF本田拓也に正式オファーを出しており、契約の違約金などさえ折り合えば移籍も間近という情報で、もし本田が加入すればボランチとしては4番手くらいに落ちてしまう危険性もある。

しかし青木にはセンターバックも出来るという強みもあり、天皇杯決勝でもオフサイドトラップに失敗し1点を失った伊野波、日本代表に呼ばれる事も多くなる岩政など、1年を通じて固定できるほどの絶対的なポジションではなく、鹿島としては中田浩二や青木をセンターバックとしても計算しているだろう。
また、ドイツに移籍した内田がいなくなり、左サイドバックから新井場のコンバートでどうにか補っている右サイドバックのポジションも、かつてその役割を立派にこなした青木ならば務められる。

なかなかに選手の層が厚い鹿島の中で、厳しいポジション争いはあるものの、33歳になる小笠原や中田浩二といったボランチの高齢化も顕著となってくるわけだし、天皇杯決勝でみせたパフォーマンスを維持していく限り、青木の力が必要ないわけがない。


確かになかなかスタメンで出られない我慢の時期はまだ続くかもしれないが、しかし青木というこれだけ守備力に長け、ボールも回せ、正確なロングキックを持つ選手が活躍しないはずがなく、2011年も引き続き期待していきたい。







(11.01.12UP)





ついに日本代表デビュー!そしてJ1連覇達成!青木剛の2008年の総括

この文章の下にリンクを貼ってある特別記事のとおり、2007年は怒濤の追い上げで浦和レッズを引きずり下ろし、王者復活を果たした鹿島。

その勢いは続く天皇杯を制したことで本物と証明され、そのままの流れで2008年はまさにレッズから鹿島に王者が入れ替わった事を証明するような年だった。

そんな王者鹿島の中で青木は鹿島になくてはならない核メンバーとして定着し、当然のようにそんな王者の核たる選手は代表にも呼ばれるようになり、ついには国際Aマッチでデビューを果たす。


そしてその後も鹿島は大黒柱・小笠原を欠きながらも安定した戦いを見せ、ついには1ステージ制になって初めての連覇を達成。


まさに、今がサッカー選手として花盛りの青木の2008年の総括をここに記述したい。



高さも兼ね備える青木、ついに代表候補に呼ばれる

2008年7月24日、青木剛がついに代表候補に呼ばれる。
確かACLなどの関係でガンバ勢や五輪代表勢が呼べない中、岡田監督が”単純に高さが欲しい”というコメントのもと招集がかかった。

やはり、ボランチとして、アンカーとしての守備力と定評のあるロングフィードなどと共に、センターバックも務められるその高さは岡田監督の目にも止まる事となる。

特に、この頃の代表のボランチといえば遠藤、中村憲剛、長谷部と、守備力よりも攻撃力がウリのセントラルMFばかりであり、鹿島でも小笠原というセントラルMFを守備と運動量で支えるアンカー青木はボランチの組み合わせとして当然視野に入って当然の選択だ。

しかし、この時はまだテスト生扱いでデビューはお預け。

なかなか代表の道、まして激戦区のボランチの座は厳しいと感じた。



ほろ苦い代表デビュー

しかし、アジア最終予選のバーレーン戦の壮行試合として組まれた国際Aマッチである2008年8月20日のウルグアイ戦でついに代表デビューを果たす事となる。

正直、私は練習試合である壮行試合はほとんど観ない事としており、青木がデビューということで興味はあったものの、仕事も多忙であったためこの試合は観る事が出来なかった。


その試合、そもそもメンバーの揃え方に難があり、青木、長谷部の2ボランチはともかく、2列目が中村憲剛と久々の代表復帰の小野伸二。

どちらもセントラルMFタイプである憲剛と伸二の2人が2列目をやっているようでは攻撃に流動性があるわけがないのは試合なんぞ観ないでも明らかであり、当然のように前半苦戦した模様でスコアレス。

上手くいかなかった割をくった形で一番代えやすい代表初出場の青木はハーフタイム早々に下げられる事となる。

結局、後半は1点オウンゴールで先制するもその後3点取られて1−3で負けるという、何のための壮行試合なのかわからない試合となってしまった。


結局その後のバーレーン戦では中盤の3人が俊輔、松井、遠藤と一気に3人入れ替わり、アウェイでの貴重な勝利を収める事となり、やはり松井のようなスペースに入っていける選手がいないとダメなのが歴然と分かり、その後はFW大久保などがこのポジションに入るようになっている。


青木自身のコメントも、早い展開の中何も出来なかったとあり、周りの評価も守備だけでなく、最近のあのポジションはやはり攻撃面が求められる、ともっと青木らしい神出鬼没な積極的な攻撃参加や攻撃への意識が課題として挙げられたようであり、まあこの辺はさすがにデビュー戦で緊張していたであろう青木に過剰に求めるのは酷というものだ。

かくして、青木の代表デビューはほろ苦いものとなり、またしばらくは代表は厳しいかなと思われた。



大黒柱・小笠原を欠くも、2連覇達成!!

代表から戻った青木はその後も鹿島でのプレーを頑張る事となるが、とにかくACLとJリーグとでのかけもちで鹿島の選手達はこの夏場にどんどん疲弊していき、オリヴェイラ監督もさすがにお手上げ。

そんな厳しい連戦の疲労のツケがいよいよ回った形で9月22日に小笠原がプレー中に大怪我を負い、全治6ヶ月という診断結果が出る。

鹿島に無くてはならない大黒柱として、2007年の奇跡の逆転優勝の立役者ともなった小笠原のこの長期離脱は非常にショッキングなものであり、その直後のACLでもオーストラリアのアデレード相手に敗戦。


王者・鹿島に暗雲が立ち込めた。


しかし、ACLが終わった事によって鹿島は他のチームと日程的にイーブンな立場となり、小笠原不在となてからむしろ戦績を伸ばし始め、当初ライバル視されてきたガンバやレッズがACLなどの影響もあって早々に離脱する中、追いすがる川崎や名古屋に地力の差を見せつける形で振り切って2連覇を果たす事となる。

小笠原の代役を務めた中後も評価されるべきところだが、やはり青木がしっかりとチームの核に成長したことが小笠原不在でもチームに安定感をもたらす結果となった。



2009年1月、代表公式戦デビュー!

2008年は以上のとおり、ほろ苦い代表デビュー戦はありながらも、ACLなども経て更に成長を遂げた青木。

2009年1月20日のアジア杯最終予選・イエメン戦ではついに公式試合初出場となり、この試合は2−1と勝利を収め、チームに貢献した。

さすがに遠藤、長谷部を軸に、阿部、稲本、憲剛らがひしめくボランチの座は険しい。

だが、これらのメンバーの中で、まず一歩抜き出る守備力を武器に、得意のロングフィードと攻撃の組み立て、積極的な攻撃参加などが出て更なる成長を見せれば、今後の代表での活躍はまだまだ可能性が大いにある。

王者・鹿島での絶対的なレギュラーという座を得ているということは、同時に代表でもそういう意味を持つ。

前橋育英卒業以来、鹿島一筋で本田にはじまり、小笠原や中田浩二らの背中を追い続けた青木は、ついには鹿島に復帰した浩二を全く問題にしないほどのチーム内での存在感を持つまでに成長した。

2009年の鹿島のボランチ陣として、小笠原の代役を果たした中後は千葉に移籍となったものの、中田浩二をはじめ、負傷から復帰する小笠原、虎視眈々と中盤の座を狙う増田、そして2008年、水戸で攻守に渡って大活躍し、2009年から新設されるアジア枠でプレー可能なパク・チュホと、ライバルは多い。
しかし、よほどの大崩れや怪我でも無い限り、オリヴェイラ監督にとってのファーストチョイスは青木で間違いないだろう。


怪我をしないのも青木の長所の一つであり、ここまで成長できてきた要因でもあるため、せっかく掴んだこの座をしっかりとキープし、そして更なる高次元なプレーを目指し代表の座もキープしていきたい。

チーム内でサイドバックやセンターバックを経験し、その都度成長していった青木。
なにせ未だ26歳。まだまだ青木剛というプレーヤーは成長していくことだろう。



(09.02.14UP)






■特別記事■

 2007 J1鹿島 破竹の9連勝で奇跡の逆転優勝!! 
(07.12.03UP)





育英黄金期”たった一人の2年生”青木

青木の1つ上の育英の先輩達は現在ザスパ草津のFW正美やGK岩丸、福岡のMF松下、広島のMF茂原などがおり、この世代は2年生の時から名門・育英の中心メンバーとなり全国選手権ベスト4まで進んだ。
当然それら黄金期の2年生達はそのまま3年生になり、優勝候補と謳われながら全国選手権を勝ち進んだ。
惜しくもこの年異様なまでの堅守を誇った市船とスコアレスドローとなりPK戦でまたもやベスト4止まりとなったわけだが、その輝かしい連続ベスト4の3年生レギュラー陣の中で、たった一人2年生がいた。

それが青木だった。
育英の全国選手権でのTV放送で毎試合メンバーが紹介される中、たった一人の2年生の文字は非常に目立った。
その時はおそらく当時のチーム事情もあり青木は本職のボランチでなく左CBを務めた。
松下、茂原という絶対のボランチがいて、なおかつ青木の183cmという身長ゆえの事だろう。


狭間の世代の中、孤高の青木は戦い続ける

この青木は当然2年生の頃から各世代の日本代表に選出され続けた。
しかし、それが仇となり、青木が3年生でキャプテンとなった年は肝心の青木が代表の方で多忙となり、結局チームは地区予選で前橋商業に負け、全国選手権出場はならなかった。

そして次の青木が卒業した年、今度は1年下の後輩達である現在ザスパのMF大谷圭志、佐田や各チームで活躍している相川、大谷昌司、須田、坪内といった第2次黄金期メンバー達により、またしても育英は全国ベスト4までたどり着く事となる。

 皮肉な事だが、青木の世代はそのベスト4の黄金期に挟まれた狭間の世代と言われても仕方ない。

しかし、現在この育英黄金期3年間の選手の中で最も活躍する男はこの青木であることに間違いはなく、その意味で孤高のイメージが私にはある。


期待の新人として、ビッグクラブ鹿島アントラーズへ入団

高校でのチーム自体は苦渋の結果となったが、青木自身はユース代表での活躍が注目され、各Jリーグチームから引く手あまたとなる。

その結果、鹿島アントラーズへ、この年唯一の新人として入団。
当時の鹿島は磐田と並び2強の時代のまっただ中であり、しかも中盤にはキャプテン本田、日本代表の中田浩二、攻守両面で高いプレーを魅せる熊谷などがひしめき、更には鹿島は伝統的にボランチにブラジル人を必ず補強するため、ボランチの層は日本一厚いチームであった。

注目の新人でありながらまだ高校出たての青木はしばらくの間デビューは遠いと私は感じた。


鹿島の中でも際だつ能力

しかし意外にもその入団直後のゼロックススーパー杯で青木は後半交代で入りデビューを果たす。
そして全国が注目するその試合で青木はそつなく攻守共に活躍し、特に3列目からの正確なロングフィードを見せつけた。

恐るべき事に、既にこの時点で青木は王者・鹿島アントラーズのレギュラーに十分に値する能力を証明した。


3年目、中田浩二の代役として活躍

1年目、2年目はぼちぼちベンチに入りながら出場を重ね、下積み生活を送る。

そして3年目の2003年、青木にとって大きな壁であった日本代表中田浩二が約1年に及ぶ大怪我を被い、青木に出番が回ってくる。
まだまだ本田や熊谷などライバルは多かったものの、着実に出場を重ね、すっかりと鹿島のチームに定着する事となる。
ちなみにこの年の青木の活躍によるのか、熊谷は翌年2004年の途中に仙台へ移籍し、本田はその高齢からか出場数が激減する。

4年目、中田浩二が復活すると、今度は右サイドの名良橋が大怪我。右サイドバックの交代要員に内田がいるが、その内田も怪我だったのか(よく知らないが)、青木は今度は右サイドバックでスタメン固定となる。
いよいよ青木はチームのレギュラーとして定着した。


五輪代表での苦闘

強豪鹿島の中で着実に地盤を固めていった青木だが、2003年、2004年の五輪代表ではレギュラー争いに苦戦を強いられた。

狭間の世代と言われながらも、ボランチには千葉の阿部、浦和の鈴木啓太、そしてやたらと得点するようになり話題となったFC東京の今野らがいて、熾烈な争いとなっていた。

そのため青木は層の薄いCBの真ん中、リベロでレギュラー固定となり地区予選などを戦い続けた。
リベロには千葉の阿部も参戦し、阿部のフリーキックという飛び道具も捨てがたい五輪代表はこの辺のボランチとリベロの選手の使い分けが流動的だった。


しかし、ここで一つ革新が起きた。
浦和のトゥーリオの日本人帰化だった。

トゥーリオがリベロにどっしり入ってしまったため、必然的に五輪本戦のメンバー選出の際に、このボランチ、リベロの層から1人をメンバーから削る事が必要となってしまい、その1人が青木だった。

青木はそのロングフィードの能力の高さが非常に買われており、阿部や啓太を落としてでも青木の残留を、という専門家の意見もあったが、結局リベロの控えとフリーキックを持つ阿部との両天秤に負けた形となった。

正直いってトゥーリオさえ帰化しなければ青木は完全にスタメン固定で五輪本戦を戦ったはずだった。
それがいきなりメンバー落ちとは・・・
残念な事だが、仕方がない事でもある。


中田浩二海外移籍でいよいよ鹿島の中心メンバーに

そして2005年、中田浩二が海外へ移籍し、青木は確固たるスタメンの座で活躍し続けている。
結果的にも鹿島は久々のタイトル、王者奪還に向けガンバ大阪と高い次元の首位争いをしている要因には、もちろん青木の活躍が挙げられる。

鹿島を率いるは、ジーコと共にブラジル代表で黄金のカルテットと呼ばれたトニーニョ・セレーゾ。
この世界最高峰のボランチと称された監督のもと、青木は攻守に渡り非常に多様な役割を要求される。

そして青木はその高次元の要求に見事に答えている。
それが今のスタメン固定という結果だ。

育英時代、五輪代表で身につけた守備力、右サイドバックで身につけたサイドでの突破力、そして持ち前の正確なロングフィード、展開力と、青木は全ての面に渡り万能だ。
この高い能力をこの強豪鹿島の一員として首位を争う中で磨いていければ、青木は相当な選手になるのではないだろうか。

このままこのビッククラブで活躍を続け、確固たる地位を築けば体格にも恵まれている青木には当然海外移籍という話も将来あるだろうし、中田、小野らの黄金期と呼ばれる世代のそのまた次の世代の日本代表として必ずや呼ばれる事だろう。

山口素弘、松田直樹に続く、前橋育英歴代キャプテンの正統なる系譜を受け継ぐものとして、現在最も近い位置にいる男はこの青木で間違いない。




(05.09.10UP)



天使



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