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ザスパ草津再建企画 パート4


長期にザスパが選択すべき道 番外編
〜前橋と高崎の対立〜



横棒




このページは下記のリンク先の記事の番外編として書いたものです。
このページに先に来られた方は下記の記事についてもご参照ください。



 〜高崎競馬場跡地がもしスタジアムならば〜 (07.09.14UP)





ザスパの活動を阻害する前橋と高崎の対立

Jリーグに上がるにあたりザスパ草津がこれまでのホームタウン草津町から、「ホームタウンを草津町と前橋市を中心とする群馬県全域」と改め3年が経つ。

しかし、この公文章に”前橋市”とあるがために、どうも私の目にはザスパの活動の制限がかかっているように見えてならない。

そこにあるのは「前橋と高崎の対立」という、群馬県の過去からの遺恨によるものではないか。

群馬県外のよその人からみると何の事やらわからない、この狭い群馬県内での狭い紛争を中心に、現在のザスパ草津が置かれている状況をまとめたい。



群馬県に存在する前橋と高崎という双子都市

はじめに、群馬県に在する前橋市と高崎市という2つの地方都市を紹介する必要がある。

利根川を挟む形で隣り合い、お互いの市役所が10kmと離れていないこの近接する2つの都市は、あらゆる面で昔から拮抗してきた。

最近は平成の大合併でいろいろと変化は大きいものの、昔から面積、人口共にほぼ同格。
お互い競うように文化施設、興行施設、中心街などを持ち、世にも珍しい双子都市の様相を長年呈してきた。

ただ一つ違う点としては、前橋には県庁があり、名目上の群馬県の第一都市であること、そして高崎には高崎駅という新幹線も止まる北関東屈指のターミナル駅を擁し、それによって実質上の群馬県の第一都市であること、といった点がある。


大変簡単ではあるが、とりあえずの紹介は以上のとおり。

なぜ互いに人口30万そこそこという中途半端な規模を持ち、距離も近接する互いの地方都市が、浦和・大宮のような合併もせずにここまで切磋琢磨してきたのか。


多少デリケートな話ではあるが、このページでは私なりのまとめを書いていきたい。
なお、長年前橋で生まれ育った私の、幼少の頃からの勝手な思いこみも多分に含まれている事は自分でも承知している。
間違った記述があれば、できればメール等で知らせて頂けると幸いです。



強烈なライバル心

県内の長が集まる平成19年の市町村会議で高崎市長が開会のコメントで「合併で35万に近い人口になれた」と言ったら、今度は前橋市長が「富士見村との合併で高崎を上回りたい」といったコメントをしたとのニュースを小耳に挟んだ。

まさに売り言葉に買い言葉。
前橋と高崎の昔からのライバル心がよく伝わる一節だ。

まあ、前橋に生まれ、前橋に育てられてきた自分も、早5年と高崎での勤めが長くなっている事もあり、もはやあまり前橋だ、高崎だ、という感覚はない。
特に最近はザスパ草津という、全県を活動拠点とするチームを応援しているわけで、既に県内でそのような垣根はないと思っている。


しかし、私の親の世代、そのまた親(おじいちゃん)の世代の人にとっては前橋と高崎といえば強烈なライバル同士であり、それは少なからず現代にも影響を及ぼしている。
事実、こういったつばぜり合いは事ある毎に繰り広げられる。



県庁移転の経緯

前橋と高崎の根深い対立関係のそもそもの事の発端はやはり県庁移転騒動だろう。

なぜ前橋に群馬県の県庁があるのか。どういった経緯がそこにはあったか。

いろいろとネットなどで調べるとフリー辞書のウィッキペディアなどで案外すぐにわかる事だが、一応以下のとおり。

そもそも廃藩置県当初、群馬県庁は高崎に置かれていた。
その後徴兵令が発布されると、高崎城に鎮台の分営が置かれる事になり、兵部省の管轄下となったため、県庁は追われるように前橋に移転。
その後1873年に、群馬県が入間県と合併して熊谷県となった後、1876年に分割されて再び群馬県となると、県庁は再び高崎に置かれた。

本当ならこの時点で、一時期前橋に仮移転してはいたものの、やはり県庁所在地は高崎、と誰もが思うところ。
まぎれもなく、”群馬県”の初代県庁所在地は”高崎”だった。

しかし、仮庁舎が置かれた場所は狭く、各部署があちこちに散在する状態であり明治政府としても悩みどころだった。

こうした中で当時、生糸の輸出で財を成していた前橋出身の生糸商人・下村善太郎(後の前橋市初代市長)により、県庁を前橋城跡に誘致する事を明治政府に提案し、県庁の誘致に乗り出す。
県職員の住宅や、県職員の子弟の学校を造る事が県庁移転の条件とされていたが、下村善太郎の私財投入をはじめ、前橋市民たちから多くの寄付金を集める事に成功し、必要施設は建築された。

そして、1881年に、群馬県庁が正式に前橋に置かれる事が明治政府から発表される。
この決定に高崎市民は当然激怒し猛烈な県庁奪還運動を行ったが、結局は既に築造された前橋の具体な施設群は揺るぎないわけであり、そのまま前橋が県庁所在地となり現在に至る。



ようするに生糸で一儲けした成金の前橋が金の力にものを言わせて力ずくで県庁を高崎から分捕ったわけであり、これに対する高崎側の恨みは根深くて当然といえる。


また余談だが、前橋の史上最大の功労者、恩人ともいえるこの下村善太郎のように、私財を投げ打ってでも地元の発展に努めたいという気概が群馬県人にはある。特に前橋市民はこの思いが強い。
そういった事が堅固な保守王国としてもいつまでも根を張っているし、私のような群馬至上主義者も産みだしていると推測する。



逆転した前橋と高崎の力

上記のとおり、金の力で県庁を持ってきた形の前橋だが、昔からの経緯からすると前橋は群馬県の中心地として昔から位置づけられていたわけだし、大正の国勢調査の頃より一環して人口も群馬県で一位をキープし続け、前橋が県庁所在地で当たり前だろう、と胸をはってきた。


高崎はたまたま新幹線があるだけ。


そういった前橋側の”上から目線”はずっと継続され、それに対し高崎はいつか決定的に前橋を見返し、そして最終的には県庁奪還を、という反骨精神は脈々と受け継がれてきた。


昔から前橋は県庁所在地という特権からの恩恵を受け続けてきた。

県庁に付随する県の中核機関は前橋に集まり、県民会館、県立図書館、県立競技場、県民プール、群馬大学など、特に労をせずに群馬県全体の金や国からの金を使ってあらゆる施設が築造され、NHK前橋、上毛新聞本社などのマスメディアの中心も依然として前橋にある。

そんな苦労知らずの前橋に対し、高崎は高崎駅という最大の武器を背景に商都として市民の力で財を築き、音楽センター、高崎経済大学などの施設を自前で作り上げ、前橋に対抗してきた。


結局、現在になってその努力の差は実りつつあり、力の差は完全に逆転している。
先の高崎市長のコメントのとおり、面積も人口も現時点では高崎が県下トップであり、前橋に本店のあったヤマダ電機も高崎駅東口に移転されるなど、実質的な権力は続々と高崎に移行しつつある。

中心市街地の落ち込みようも、高崎はまだまだ復活の兆しがあるものの、前橋は完全に死んでしまった。
これは完全に高崎駅と前橋駅の雲泥の差の潜在能力の差であると私は思うし、もはやどうにもならないくらいその差は決定的だ。


(この高崎駅の持つ意味合いの強さは冒頭でも紹介した下記のリンク先ページで詳しく書いています)

 〜高崎競馬場跡地がもしスタジアムならば〜 (07.09.14UP)




前橋はたまたま県庁があるだけ。


現在のところそう言っても全く過言ではない。
もはや高崎は県庁にこだわる必要もない。
誰がどう見ても、群馬県の第一都市は高崎であり、議論の余地もない。



意地をはる前橋

さて、なぜかザスパを正式には応援せずにCMには中村俊輔を多額の広告費用を払ってまで起用し、全国的に名を馳せる群馬の第一企業であるヤマダ電機本店が移転するという決定的な事実をもってしても、それでも前橋の昔から培ってきた保守的なお役人根性は変わらない。

あくまで県庁を持つ前橋が群馬第一の都市であり、群馬の代表は前橋であり続けなければいけない。

そんな中で舞い込んで来たのがザスパ草津だった。

草津という、国内屈指の温泉地という以外に実質的にはあまり力を持たない町の名を冠するこのチームは、Jリーグに上がるために一定規模以上のスタジアムが必要だった。

そして先に述べたとおり、前橋には県庁所在地の恩恵として賜った県営敷島陸上競技場がたまたまあった。


”ザスパ前橋”化

必然的にザスパというチームは前橋に降りる事になり、もともと前橋育英という県下一のサッカー強豪校を擁していた前橋に選手寮や練習場、チーム事務所なども置かれ、ザスパの活動は現在前橋中心となっている。


これに目を付けた前橋は、現在のところザスパをまるで前橋のチームであるかのように扱っている。

自分のところの中心市街地の活性化のためにザスパオフィシャルショップ”ザスパーク”を前橋市中心街に置かせ(まあ強制したわけではないので”置かせ”、という言葉は語弊があるが)、巨大応援フラッグをサポータに送り、そういった恩を着させた(まあこれも語弊あり)事などを背景に開幕戦では草津町長より先に前橋市長がコメントするというヒンシュクものの行為にも発展した。


表立ってはまだそんなに言われてはいないが、実質”ザスパ前橋”化させようという前橋側の魂胆は見え見え。
(まあ、何をやるにしてもお金の無いザスパへの支援はたとえ押しつけでも歓迎ですが)

実際、ザスパ側のイベントや学校訪問などのあらゆる活動において、高崎での活動があまりに少ない。
それに対し、前橋や伊勢崎でのイベントの多さを見ると、客観的に見てもあまりに異常であり、ザスパの戦略の方向性も徐々に見え隠れする。



前橋と高崎の狭間で

冒頭で述べたとおり、ザスパがJリーグに上がる際に前橋に降りざるを得なくなった時点で、草津町、前橋市を中心とする、群馬県全域をホームタウンとする、といった公式文を出す事になり、そこにはっきりと前橋という名称が刻まれた。

これは完全に憶測に過ぎないが、これまで述べてきたとおり前橋と高崎という根深い対立がある限り、前橋という名称に縛られるザスパはあまり高崎との関係を深いものに出来ないのではないだろうか。
逆にいうと高崎としても、ザスパはなんだか前橋のチームっぽいよね、といった気概がどこかに無いだろうか?
そういった気概が、ザスパに対抗するように発生した感もあるJFLチームのアルテ高崎(旧・FCホリコシ)のようなチームを産む一因とも思える。
(一応、私は群馬のチームである限りアルテ高崎も応援していますが・・・子供の産まれた今年はさすがに観に行けていません)


しかし、本来は平野面積が狭く人間の経済活動範囲が非常に限定され、人口の規模も小さい群馬県にあって、そんな事を言っている場合ではない。


ザスパの戦略としては、手初めてに前橋、伊勢崎という上武道路・駒形バイパスラインでまずは土壌を確保し、その延長上にある太田にもなんとか手を伸ばそうとしている。
(まあメインスポンサーのベイシア、カインズホームグループの拠点が伊勢崎、前橋なのだから、この地区から攻めるのは当然といえば当然だが)

この太田市には昔から三洋電機のワイルドナイツという国内トップクラスのラグビーチームがあり、そこと連携することで活路を見出そうとしていると思われる。
太田の工場にはブラジル系の労働者も多く、元々サッカー熱は高い。


この伊勢崎、太田と同じようにザスパは絶対に高崎も取り入れる必要がある。

前橋と高崎という垣根をスポーツマンシップという敬虔なる精神で振り払い、文字通り群馬県全域を味方に付ける必要がある。

なぜ、人口200万という県下の人口に対し、毎試合3000人程度の観客しか集められないのか?

位置的にも近い、高崎を中心とする群馬南西地域での活動にもっと力を入れるべきであろう。
幸い、高崎市倉賀野を拠点とするキリンビール群馬支社からは、フォトコンテストの開催など様々な支援も始まっており、ザスパとしても今後の高崎進出への足掛かりとなるのではないだろうか。

(そうして、このページを執筆している間に、H19.9.23のホーム仙台戦に高崎市民1000人を招待するといった企画も打ち出された。私が杞憂するよりも既にザスパは高崎にもいよいよ本格的に触手を伸ばしてくれているということか。)




最終的には高崎競馬場跡地にホームスタジアムを

更に将来的な事を言うならば、やはり高崎駅東口という絶好の集客効果を望める位置にある高崎競馬場跡地のホームスタジアム建設が最終目標となる。

前橋も高崎も関係なく、本当にザスパが群馬を代表するチームとして国内に、世界に発信するとしたならば、最終的にはどんな形態となることが必要か?

高崎駅という群馬県の誇る最大の武器を活用しない手はない。

そもそも東京という世界屈指の巨大都市に多大な影響を受ける群馬において、県内でいざこざを起こしても負け戦だ。

群馬という地方で生き残っていくためには、得られる限りの競争力を身につける必要がある。
それこそが高崎駅だと私は考える。

そうでない限り、この先も前橋に捕らわれ細々とやっていっては、事あるごとに消滅、解散の憂き目にあう自転車操業はこの先も続いていってしまうだろう。



こんな文章を書くことが何なのか。
何の意味が、実行力があるのか。

当然疑問に思われる方は多いだろう。

しかし、インターネットという公共の場でこのような声を発していくこと、そしていずれ何かのきっかけに繋がれば、群馬の一小市民であり、ザスパの一ファンとしてできる事として上出来だと考える。
今の私に出来る事といえば、正しいと信じる事をHPに書く事くらいだ。

これにて、先の「高崎競馬場跡地がスタジアムならば」、の記事と併せ、構想2年の記事をいったん終了としたい。








(2007.09.14UP)
(2007.09.18読み直してみて自分なりに一部修正)






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