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ザスパ”草津”であるということ
〜ザスパと草津の相関関係〜
Vol.2

草津魂を受け継いだチャレンジャーズチーム


横棒


チャレンジャーズチームの誕生
〜草津での活動を託される〜

拠点は前橋に行き、では草津では?

前回Vol.1までで、本当は草津温泉を拠点として活動してこそのザスパ草津ではあるが、J2リーグを戦い抜くための実際の条件面で、前橋市におりてくるしかなかったこと、そして活動の範囲を更に広げ群馬県全域をターゲットにした事などを書いてきた。

まずは県内でのザスパの知名度、人気を上げ、当面の観客動員を増やし、一番の収入である観戦料を増やし安定させることこそがクラブ経営の鍵を握るわけで、このトップチームの草津離れ、ザスパ”前橋”、あるいはザスパ”群馬”化はある程度やむを得ない妥協策といえる。

では本拠地・草津はどうなるのか。
ザスパ草津という名を冠しながら、この状況が果たして本当に地域密着といえるのか。

ここではザスパ草津がJリーグ昇格と共に前橋に拠点を移した後の草津との関連のこれまでのまとめと、今後の展望を書いていきたい。


草津での活動はチャレンジャーズチームへ

トップチームはJリーグでの戦いのために前橋に下りざるを得なかったとして、しかし草津での活動をやめるわけにはいかない。
そこでザスパというチームだけが特別に採用した方式が「チャレンジャーズチーム」だった。
普通、サテライトリーグにはいわゆる補欠、サブ組が調整のために出場するが、ザスパだけはトップチームとチャレンジャーズチームをはっきりと区別し、サテライトにはほぼチャレンジャーズチームでだけで参加させた。
(2005シーズンはトップのレギュラークラスが調整で2、3人出たりしたけど、2006シーズンは完全にチャレンジャーズチームだけ)

チャレンジャーチームは毎年セレクションで合格した選手(主に20代前半までの若手)を採用し、JFLまでのザスパと同じく半日は草津温泉で就労、半日はサッカーの練習という中で心身共に鍛えるというもの。

このトップとサテライトがこれほど完全に分かれているのはザスパだけだろう。
あくまでもザスパ”草津”でおしとおすための苦肉の策とも言えるし、ザスパらしい独創性のあるやり方でもある。
当然の事ながら、その下地は2004シーズンまでのザスパと草津温泉の信頼関係があっての事であり、この辺が単なる企業チームとの差だ。


地域から可愛がられるチャレンジャーズ

チャレンジャーズチームに関しては私はあまり見る機会もなく、そんなにたいした事を書く資格も無いが、様々な情報を肌で感じる限りはチャレンジャーズチームの若者達は草津の人々に好意的に受け入れられているようだ。

祭りやイベント、雪下ろしなど、様々な地域での活動の際には必ず参加し、若い労働力を提供することは地域にとっても有り難いだろうし、やはり自分のところで日頃働く青年達が鹿島や新潟の選手を相手に戦う姿は親戚の子供を見るようなものだろう。

それこそがまさにザスパ草津ならではの地域密着。
まさに地域に根をはった活動の姿だ。

厳しい環境を自ら選び、真剣にサッカーに取り組む姿は草津町民ならずサポータからの人気も高い。
サテライト戦や練習見学では毎回多くのサポータが草津や嬬恋に詰めかけているようだ。


草津温泉 湯畑
草津温泉の代表的風景 湯畑(ゆばたけ)
(フリー写真 Sotheiのページから拝借)



険しすぎるトップへの道

ここから私がこの2年間感じてきたチャレンジャーズチームの最大の難点を書きたい。

それが、チャレンジャーズチームからトップチームへの昇格のあまりにも険しい道のことだ。

当然チャレンジャーチームはトップチームへの昇格、プロ契約を目指して頑張るわけだが、残念ながらこの2年間トップでのプロ契約までいった選手はいない。
2005年もMF櫻田やMF後藤涼、DF柳澤宏太などがトップへ上がり、2006年にはプロ契約をするまでに至ったが、実は彼らはあくまでトップチームへ高校や大学出の新卒として入った選手達であり、チャレンジャーズは半年間の新人研修のようなもの。
純粋にチャレンジャーズチームから上がったという印象は少ない。

それでも2005年のチャレンジャーズチームからは、その他DF杉山やFW佐藤大、樋口ら多くの選手がトップとの合流は果たしたので、チャレンジャーズチームとしての存在意義は示した。

しかし、翌年の2006年は監督が代わり、トップチームもある程度メンバーを固めて戦ったので、なかなかチャレンジャーズチームまでお鉢が回ってくる機会がなく、結局はMF金子1人だけがトップへ合流するのみとなった。

この事実はあまりに厳しいものだと思う。
はっきりいってトップチームはあまりチャレンジャーズチームを戦力としてあてにはしていないという事だ。

当然といえば当然であり、トップチームの中だって30名近い選手がひしめく中、ベンチ入りも含め試合に参加できるのはそのうち半分。
残り半分の控え選手達は滅多に出番が回ってこない中、コンディション調整に苦しみながらその出番を待つ。
それなのにチャレンジャーズチームから更に引っ張ってきてどうしようというのか。
それよりもまずは、あり余る控えの選手を試す方を優先させるのは当たり前だ。


ではチャレンジャーズチームの存在意義は?

では戦力としてあてにされないサッカー選手など、何の存在意義があるというのか。
はなからトップチームでの活躍をあてにされないチャレンジャーズチームは、草津との関係を維持するための手段でしかないのか?

とにかくチャレンジャーズチームとしての実績が少なすぎ、これでは半日の労働を虐げられるチャレンジャーズチームの面々もその努力の見返りがあまりに目に見えない。報われない。
これでは精神的に腐ったりはしないだろうか、この2年間疑問と不安でならなかった。
おそらくその精神面のケアも草津の人々の応援と協力のお陰で助けられたとは思う。


トップとチャレンジャーズの壁の高さ

この問題は結局は先に述べたとおり、トップチームとチャレンジャーズチームとが完全に分離しているというザスパ独自の制度の壁に他ならない。

トップチームは前橋で寮に入り練習、試合に明け暮れ、チャレンジャーズは前橋から2時間も離れた草津で就労と練習に明け暮れる。

通常のサテライトチームならもっと簡単で、隣の練習場か、近くの練習場に身一つで行くだけだ。
怪我やコンディション悪化の際などの調整でも軽く合流できるし、トップとサテライトとで頻繁に紅白戦もできるだろう。

しかしザスパの場合、まずどちらかへの合流の際には引っ越しが伴う。
当然明日から行ってこい、などいう唐突な事はできず、それなりの準備が必要だ。


草津での就労

そして、この点はどうしているのかいつも不思議だが、チャレンジャーズの選手はホテルなどの労働力でもあり、ある日突然前橋に行かれても困るのではないだろうか。
そしてトップチームからの降格した選手も草津へ行ったら即就労ということになる。

プロの選手とは前のページで述べたとおり、サッカーだけで飯を食う事ではないのだろうか。
それがいきなり翌日から就労を課せられても、あまりに厳しい命令だ。

この事が実際に2005年はあった。
チャレンジャーズとトップチームの選手の入れ替えだ。
その背景にはトップチームのあまりのリーグ戦での不振(ダントツ最下位)があり、その起爆剤にと期待されての事だった。

草津行きと宣告された当時のトップチームの選手達のショックは計り知れない。
シーズンももう終盤に差し掛かったところでの草津行きは、もはや今シーズンの出番はないと通告されたのと同じで、しかも昇格してきたチャレンジャーズの面々に代わって草津での就労も課せられた。

これはとてもプロ選手の扱いではない。
こんな不安定な扱いをされては、精神的にサッカーに集中できるのかも疑問だ。
そう、プロとはプロ契約した限り、契約期間である1年間はサッカーのみに専念できる、という条件がまずは最低限の条件ではないかと思う。


この疑問はやはり多かれ少なかれクラブ側も持っていると思われ、結局は翌年の2006シーズンはトップチームからの草津降格は無かった。
しかしその代わり草津からのトップ昇格もわずか1人だったということだ。
結局は、2005シーズンはあまりのチームの不振があったからあれだけの入れ替えがあったが、通常はその程度が限度なのだ。
おいそれとトップチームの選手を草津送りにもできないし、そうなるとただでさえ飽和状態のトップチームへ草津の若手もそんなに多くは連れてこれない。
よっぽど多くの怪我人でもトップチームに出ない限りは。


草津−前橋間の距離と就労という壁。
同じクラブのチームながら、この2つのチームの間の壁はあまりに大きい。



U−23への変革
〜正式なサテライトチームへ〜

2007からはU−23に

上記のような問題点を洗い直し、2年間の活動を経てきたチャレンジャーズチームは2007年新たに生まれ変わった。

それがU−23への衣替えであり、つまりは名前のとおり23歳以下の若手で構成し、完全にザスパ草津の若手育成のためのチームとしての位置付けとなった。

これまでと違ってサテライト機能も併せ持ち、トップチームの選手も調整などのためにU−23に混じってサテライト戦にも出られるようになる。
つまり選手間の交流がかなり密になるということだ。

サテライト戦にはこれまでチャレンジャーズチームの監督だった佐野監督ではなく、トップチームの植木監督兼GMが直接指揮をとるとのこと。
それだけ植木監督もよくU−23の選手を把握し、実際にトップでも使っていくという意志の現れだ。

(ちなみに佐野監督はトップチームのチーフコーチとなり、トップチームの守備陣を任されるとのこと。GM兼任で多忙な植木監督の強い片腕となることは間違いなく、その手腕と、そして将来の監督昇任へのスライド人事(植木監督はGM専任へ)が期待される。)


複数年の契約が可能

一番大きな変更点はその契約期間。

これまでのチャレンジャーズチームは原則1年限りでの契約だった。
つまりは雪深い草津ではボールを扱った本格的な練習は春、4月以降となるにも関わらず、トップチームのシーズンが終わる11月末までにトップチームへ合流、プロ契約までいかなければ来期の補償がされないという、あまりに時間の短い条件だった。

更に言うなら、Jリーグの試合に出るためにはシーズンの登録できる期間内に合流する必要があり、確かその期限が9月くらいまで。

つまり契約期間は1年とはいうが、4月から9月までの実質半年ほどで結果を出しトップチームへ合流する必要があったという事だ。


これでは夢も希望もない。
2006シーズンのトップ昇格がたった1人だったことも十分頷ける。

やはり、この短期間では育成も何もない。
このU−23の最大の改善ポイントはこの1年契約から複数年契約が可能となったことだ。

つまり、高卒などをじっくりと2、3年かけて育成する事ができるという事。


育成を強化

ザスパは他から力のある即戦力の選手を多く補強する予算はとても無い。
つまり自前で育て、将来のJ1昇格できるほどの戦力をある程度は揃えていく必要がある。
それが以前から言われている育成の必要性だ。

実際、草津という地は育成、特に体力面の強化としては国内でもトップの環境ではないかと思う。
理由は2つ、標高の高さと最高級の温泉だ。

1200m級の標高は心肺機能を強くさせ、チャレンジャーズチームはいずれも運動量が大きな武器となっている。
そりゃそうだろう。
これだけの標高の中、3月までは雪の中をランニングしているわけで、他のチームのサテライトに運動量で負けるわけがない。

そしてたっぷり身体を鍛えた後の草津の温泉は、かつて草津に在住した元日本代表GK小島氏の言葉どおり、まさに”マッサージ要らず”。
一度入った方は十分おわかりだろうが、草津の温泉は国内で3本の指に入る泉質を誇り、肌の弱い人には逆に刺激が強すぎるほど。
ちょうど自分も先日泊まりがけのスキーに草津に行ったが、温泉でのスキー疲れの身体のほぐれ具合と、その後の程良い保温効果、さらっとした感覚はさすがだと思った。
こんな温泉に入れるのなら、トレーニングも一段と頑張れる事だろう。


サッカーアカデミーの下地

事実、この類い希な良好な環境を活かし創立されたのがザスパ草津の本当の起源といえる東日本サッカーアカデミーであり、草津の地にサッカースクールが作られたわけだ。
そのアカデミーのチームであったリエゾン草津がザスパの前身のチームであり、現在のU−23のコーチである木村氏やつい先月まで現役だった堺氏が所属していた。

東日本サッカーアカデミーは経営難から撤退されたが、その残していった施設はなかなかに充実していると聞く。
複数ある芝のグラウンド(ただし4月過ぎないと雪の中)、寮と学校とトレーニング施設を兼ねた宿舎が既に揃っており、寮から離れた練習場を転々とする前橋のトップチームよりよっぽど恵まれた環境ではないだろうか。

これまでの契約期間に追われた状況から開放され、選手達は将来のザスパの主力となるべくこの環境の中でじっくり育っていって欲しい。


社会人としての勉強も

そして、やはり育成という面で外せないのは草津温泉での就労という社会人としての勉強。

正直いって、サッカー選手は決して儲かる職業ではない。
いつ怪我をするともわからないハイリスクな職業にも関わらず、給料は安いし、選手生命も短い。
まともにサッカーの現役だけで飯を食うとなると、かなりのレベルの選手になることが要求される。
それこそJリーグチームの不動のレギュラーに10年以上いるくらいの。
それもJ2チームではそんなに給料ももらえないだろう。

つまりたいていのサッカー選手にとって重要なのは、現役引退後の身の振り方だ。
その時に、学生時代からサッカーしかやっていなかった選手は、突然社会に出されてもあまりにも厳しいだろう。

しかし、U−23では真っ先にその社会勉強ができる。
サッカーをやりながら、現役でいる内からこの経験を積める事は大きい。

前述に、心身共に鍛える、というまさに心の部分はこの草津の温泉地で培われる。
今後もザスパに入団させる新卒は、原則このU−23にまずは入れるのだろう。
これ以上の新人研修はない。


ザスパイズムの浸透

じっくり草津でザスパイズムを教えこまれ、そして草津からトップへ巣立っていき、Jリーグで活躍する。

当面のザスパと草津の関係はこれでひとまず落ち着くところに落ち着いた。

あくまでザスパは草津から生まれ、今後も草津と共に歩む。
そうでなければザスパ草津ではない。

このVol.2では、Jリーグ昇格後の草津での活動を託されたチャレンジャーズチームとU−23について記述し、現在のザスパと草津の関係をまとめる事ができたと思う。

では、これからもずっとザスパ草津でいくのか。
このままトップチームは草津離れのままでいいのか。
本当に今の形がザスパ草津の将来形なのか。

最終回となるVol.3では少し先の展望について書ければと思います。




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(2007.01.26UP)






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