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そして不死鳥は蘇り、再び聖戦の地へと帰還する

横浜FLUGELSの生まれ変わり

横浜FC J1昇格承認!!!


〜伝説の横浜ダービーマッチ再び〜

横棒


はじめに、横浜FLUGELSと横浜FCについて

1998年10月末、突然の横浜FLUGELSの横浜マリノスへの吸収合併が発表され、日本サッカー界に激震が走った。

当然一番激震が走ったのはフロント、選手含めた仕事に直結するクラブ関係者だっただろうが、仕事には直結しないが、それまで心のよりどころとして、大事なライフワークとして無償の精神でFLUGELSを応援し続けてきたサポータやファンにとっても、大変な衝撃だった。

ANAというご都合主義のスポンサーが裏についたフロントが、吸収合併などという言葉を使い、今後は横浜Fマリノスと名称も変わる新チームを今までと変わらずに応援してください、というふれこみで告知した事については今でも許せない。

人を馬鹿にするなっていうんだ。
誰がにっくきライバルチームマリノスなんか応援できるか。
何考えているんだ?
ANAもANAだ。
わざわざFLUGELSの商標・権利全てかっさらい、中途半端に引っ越すな。
消滅だったら消滅といえば良いじゃないか。
それで他のクラブにそっくり鞍替えすればいいだろうに、なぜ形上だけでの吸収などという言葉をもったいぶって付けたのか、人の心をないがしろにするにもほどがある。


大規模な署名・募金活動

サポータの怒りは頂点に達し、存続を願う署名や募金活動など、その活動の大きさはクラブ側、スポンサー側の予想を遙かに超えるものだった。

その”予想を超えるもの”というところがそもそもおかしい。
サポータ達が普段から何を考え、何を目指し、何を得るためにクラブを応援しているのか、結局何も理解していなかったという事だ。
当時のANAからの出向組の、サッカーはおろかスポーツ全般に興味が無く、ただ漠然と王、長島の幻影を追ってなんとなく巨人を応援し、自分がやるスポーツといえば週末の接待ゴルフ程度のお偉いさんには、到底理解できなかったということだろう。
(当時のフロントが巨人ファンだったかは知りません。私はアンチ巨人なので、一般的な日本人の風潮の悪しき代表例として引き合いに出しただけです)


横浜FCの誕生

時間が無情にも過ぎ去っていく中、十分な根回しの上決まっていたFLUGELSのマリノス合併吸収はくつがえる訳がなく、FLUGELSはその年の天皇杯を年が明けた1月1日に優勝し、そして消滅。

わずかばかりの選手がマリノスに移籍し、その他の選手はそれぞれ他のクラブへ散った。

当然わずかばかりの選手が移籍し、”F”の字だけがかろうじて、中途半端に残った横浜Fマリノスなどを応援するFLUGELSサポータはほとんどいなかった。(いなかったでしょ?中にはいた?)

愛するチームを無くしたサポータ達の運動はもっと具体的なものへと変化していき、ついにはサポータから資金を集めるソシオ制度を元とした”横浜FC”という市民クラブを作るに至った。

この横浜FCは、FLUGELSサポに対する日本サッカー協会側の後ろめたさも加わり、今では信じられないような特例処置がとられ、いきなりJリーグの1つ下のカテゴリーであるJFLに出来たてほやほやのクラブがFLUGELSが解散したばかりの1999年から参加することとなった。

今考えてみれば、この特例処置が本当に凄かった。

今では全国に数多くのJリーグ加入を目指すチームがあり、それぞれの地域リーグで資金繰り、運営のやりくりに四苦八苦しながら、薄氷の状態で戦い、そして非常に厳しい決勝リーグやJFL下位チームとの入れ替え戦などを踏まえ、ようやくJFLに参加できる。

それだというのに、この生まれてまだ数ヶ月という赤ちゃん同様の信じられないほどの新生チームを、いきなり半分プロであるJFLに参加することを認めたわけだ。

当時のFLUGELSの消滅、そしてサポータ達のあまりも大きな運動、世論の声がいかに尋常ならざるものだったか、この事実が全てを物語る。


その頃の私、元Fファンは

さて、個人的な事をついでに書くと、私元Fファンは横浜FCのファンにはならなかった。
当時私は群馬の奥深いところで仕事をしており、試合など全く観に行けなかったし、横浜FCにはほとんどFLUGELSの選手は移籍せず、横浜FCのクラブの理念も、完全に横浜市民のため、地域に根ざしたチーム作り、という事で、つまりは横浜近郊にでも住んでいなければ、もはやかつてのFLUGELSのように感情移入して応援する事などできそうもなかったからだ。

FLUGELSはもともと、第2のホームを当時まだJリーグチームが無かった九州の熊本、長崎などに定めており、年間結構な数のホーム戦を九州で行ったりした。
つまりFLUGELSはあまり横浜にどっしりと腰を据えるのではなく、ANAがスポンサーについているとおり、そしてまさにその名のとおり、翼によって全国どこでも飛んでいき、サポータ、ファンを広く全国に求めてきたような経緯がみられる。

その八方美人ぶりが、結局は地元では圧倒的にマリノスに人気を持っていかれ、そして吸収されてしまう事態を招いたわけであり、その反省も含め全く新しい横浜市民のためのクラブとして横浜FCが出来たわけだ。

そういうことで、横浜になんか泊まりがけでないと行けない私にとっては、横浜FCはもはやはるか遠い存在のチームとなった。
それからザスパが2004年にJFLに上がるまでは、私のサッカーファンとしての応援チームは定まる事が無かった。


横浜FCはFLUGELSなのか?

では横浜FCは横浜FLUGELSではないのか?
もちろん答えはイエスであり、現在のところ横浜FCはFLUGELSとは無関係なチームといえる。
(なによりFLUGELSの商標・権利は全てANAが保有している)

しかし横浜FCがなぜ生まれたかといえば、当然FLUGELSの消滅以外のなにものでもない。
どんなに表面的に取り繕っても、潜在的にはあくまでFLUGELSだ。

現に横浜FCの運営会社は奥寺さんが代表取締役を務める(株)横浜フリエスポーツクラブ。

このフリエという名称こそが、FLUGELSという長めのクラブ名の裏で付けられた愛称であり、横浜元町にあったFLUGELSの公式グッズ店の名もフリエ元町。(私も当時グッズを買い求めた)
当初からサポータ達はこの愛着あるフリエの名を声高らかに連呼してきた。
当然今でも横浜FCの応援歌にはこのフリエの名を入れたものもあり、横浜FCの愛称も当時と変わらずフリエだ。

FLUGELSの商標は全てANAに持っていかれたが、愛称までは商標には入らなかったというわけだ。

このフリエの名が、魂が残っている限り、やはり横浜FCはFLUGELSの生まれ変わりなのだろう。

当然横浜FCという新たなチームが生まれてから8年が経ち、FLUGELSサポータ以外の、全く新規のサポータも多い。
それら新規のサポータ達にとっては当時のFLUGELSの事などさして気にとめる必要もない。
ただ、FLUGELSを好きだった者にとっては、やはり横浜FCこそがFLUGELSの生まれ変わりなのだ。
それが原点であり、FLUGELSが好きだったものの心の奥底にあり続ける”魂”だ。


ちなみに、2001年にJ2に上がった時などを機に、FLUGELSの名を返してもらい、名称変更はできないのか、といった要望がサポータ側からあったらしいが、奥寺社長はもはや横浜FCとFLUGELSは別のチームだとばっさり明言したらしい。
もうどっちつかずの八方美人のチームではなく、あくまで横浜という地域に根ざしたチームとして生まれ変わった横浜FCという現在のチームの形を大切にしたかったのだろう。


驚くべきJFLでの快挙

さて、横浜FCのその後の経過を追うと、1999年、2000年とJFLで1位を守り続けた。
当時はその事実の大きさがよく分からなかったが、JFLに昇格してからザスパを応援していた私としては、新参チームがJFLで1位を守り続けた事は驚異的な事だ。
なんといっても、あの”JFLの門番”HondaFCがいたし、当時まだ大塚製薬だった今の徳島ヴォルティスもいたはずだ。

結局2004年のザスパは、それら強豪に最後に競り負け、3位に転落してしまった。
あの数多くの元Jリーガー達を、その中でも経験豊富なエース山口貴之をも擁していたザスパでも、J加入の原則規定である2位以内に入れなかったのだ。
(結局ザスパは特例処置として3位でもJ加入が承認された)

それなのに、あろうことか横浜FCはJFL2年目の2000年にはついに無敗でJFL優勝を決め、そして翌年のJ2昇格を成し遂げてしまった。

当時から、そんなに目新しい戦力は金も無い横浜FCにはいなかったはずだが、しかしチームの持つ尋常ならざるあらゆる背景が、異常なほどのモチベーションの持続に繋がったのではないかと推測される。


長いJ2での万年下位争いの日々

こうしてセンセーショナルにJFLに加入、そしてJ2昇格へと行きついた横浜FC。
もう念願のJ1復帰まであとわずかだというところまで辿り着いた横浜FCだったが、その後のJ2での戦いは苦戦の日々が続いた。

2001年からの戦績は、9位、12位、11位、8位、11位と低迷を極め、もしJFLとの入れ替えが始まれば、真っ先に降格候補No.1のチームだった。
昨年のJ2に上がったばかりで絶不調だったザスパでも、横浜FCとだけは互角以上に戦えたほど。

J1昇格には程遠い実力だった。

長年の低迷のせいか、横浜FCは人気も今ひとつといった印象。
特にザスパのバックスタンドのような、大声を張り上げ応援してくれるコアサポータの数が少ない。
横浜FCでのアウェイ戦に行くと、常にザスパの方のコアサポの方が数が多いくらいだった。

実力と共に人気も伴わないか・・・
もともとマリノスに人気の面でかなり押されていたFLUGELSから生まれた横浜FC。
しかもそのマリノスは2年連続のJ1王者に輝くなど、横F消滅後も常に日本を代表するトップチームとして存在し続けた。
横浜でサッカーを応援するとしたら、どこを応援するか。
正直J2で毎年低迷するチームとアジアCLなど世界で戦うマリノスとでは、自ずと答えも出てしまう。

完全にザスパファンとなった私の目に、J2で相まみえた横浜FCはかつて愛したチームの生まれ変わりの正直残念な姿として写り、複雑な心境だった。


横浜FC、起死回生の打開策

2005年半ば、ザスパと最下位を争う横浜FCは、起死回生の打開策に打って出た。
チームの増資を図り、実力と経験のある選手を獲得し、人気、実力共に2006年のJ1昇格への基礎を作り上げる。
元日本代表でしばらくフリーだったMF望月を獲得したかと思えば、なんとキングカズを神戸から補強。
そしてそして、ついに横浜FLUGELS永遠のキャプテンMF山口素弘を新潟からも獲得した。
(この時の記事に関して詳しくは山口素弘のページを参照)

カズというタレントは言わずもがな、人気の面では圧倒的なもの。
世間の注目を集めるのには十分すぎるもので、一気に観客数も増えた。
年俸も相当する(4000万だとか)と思うが、まさにハイリスク、ハイリターンの経営戦略。

また、コアサポを集める役目として伝説のキャプテン山口の横浜への帰還は大きかったのではないだろうか。

横浜FCはFLUGELSの意志を継いで必ずやJ1に帰還する。

その意思表示として山口の帰還以上のアピールがあっただろうか。

しかし、カズにせよ山口にせよ、30代後半を過ぎ当然ピークは過ぎている選手。
人気の面は増大しても、果たして厳しいJ2を勝ち抜き昇格レースを争うほどの実力が、毎回最下位争いのチームに付くのだろうか。
やはりJ1昇格の芽は遠いかに見えた。


絶望の開幕戦監督解任

その不安は開幕戦で的中した。

2006年の開幕戦、Jリーグに加入したばかりの愛媛FCに対し、無惨にも0−1で敗戦。
この結果を受けて、驚くべき事にたった1試合で足達監督が解任する、という珍事が起きた。
(当然開幕戦での解任はJリーグ新記録)

広報としては1試合だけの判断ではなく、昨年までの指揮やオフシーズンの指導などを見てのもの、とあるが、2005年の博打補強といい、この突然にして計画性が全く無いかに見えた解任劇といい、あまりにお粗末すぎる。

下手すると横浜FCは再び消滅するかもしれない。
そう危惧しても仕方ない事件だった。


急遽代わりの監督に就いたのは、コーチで就任していたかつての”アジアの大砲”高木琢也。

当時38歳の高木は、驚くべき事に選手のカズ(39歳)よりも若い。
解説をやっていただけのこの若すぎる高木に、いったい何ができるというのか。

もはや今年も我がザスパとの最下位争いに突入か、と思われた。
この時点では誰もが、横浜FCのサポータまでもがほぼ全員そう思っていたはずだ。


驚異の堅守をもとに奇跡の快進撃

高木就任以来、連続引き分けから慎重にスタートした新生横浜FC。
なんとそこから15戦負け無し、というJリーグ新記録を樹立。
なんといっても失点が異常に少ない。
特に10節から19節まで連続無失点770分という、これまたJリーグ新記録を樹立。
平均すると3試合に1点くらいしか失点しないという、驚くべき堅守を誇り、得点こそ少ないが1−0や0−0など、しぶとい試合を重ね、安定して勝ち点を稼いでいった。

基本的な戦術としては、2トップのカズ、城のベテランFWが味のあるポストプレーと、ここ一番での決定機を確実に決め、もう1人の大ベテラン山口素弘がしっかり中盤の底でボールをキープし、左右に散らす。
そのベテラン勢の裏でスピードとテクニックを駆使し暴れ回るのがMFアウグスト。
このアウグストがあまりに横浜FCにフィットした事が快進撃の一番の要因だろう。

その他、MF内田や両サイドバックの中島、小野の運動量はベテラン勢を補って余りある働きをし、センターバックは急成長したDF早川とこれまた実績十分な小村ががっちり抑える。
そして最後に砦を守るはGK菅野。
この上背のない、一見頼りない菅野だが、そのポジショニングの良さと反応の良さはピカイチ。
敵のシュートはことごとく菅野の正面に収まる。
いや、正面に飛んでいるようにみえて、菅野が正面にいち早く回りこんでいるのだ。


なみいる強豪を抑え優勝へ

それにしても2006年のJ2は強豪がひしめいた。
J1からまさかの降格となった東京ヴェルディ、柏レイソル、ヴィッセル神戸。
J2初降格となったこの歴史もある3チームは、共に圧倒的な資金と人気と実力を背景に必ずや1年でのJ1復帰を、と固く決意する。

更に恐るべき破壊力を持つブラジルトリオと、堅守を誇る仙台。2005年もぎりぎりで甲府に3位の座を奪われ、今年こそはと誓う。
その他、年々着実に力を伸ばし、そしてフッキというエースも実力を示した札幌や、元韓国代表ユンやザスパのエース山口など大量補強し、これまた年々力を付けた鳥栖、同じようにチーム力を増してきた山形と、どのチームが昇格争いに食い込んでもおかしくないJ2だった。


今思えば、この混戦模様が横浜FCにはプラスに働いた。
J2といえば、かつてのレッズ、セレッソ、札幌、川崎、京都、福岡のように、圧倒的にリーグを制覇し自動昇格の1位、2位が早々に決まってしまうことが多い。
特に柏、ヴェルディ、神戸など、J1の戦力を維持するチームはその可能性が十分にあった。

しかし前述のとおり、数々の強豪達が互いにひしめき合い、結果としてどのチームにも独走を許さなかった。
柏、神戸も一時は抜け出しそうになったが、その攻撃的な戦術から後半に失点するケースも増えだし途中で失速。

そんな中、堅守を武器にした横浜FCは、まさに漁夫の利とばかりに着実に引き分けを挟みながら、しぶとく勝ち点を積んだわけだ。
通常ならこんな勝ち点の積み重ね程度ではJ2では優勝などできなかったが、しかし2006年だけは違った。
結局のところ横浜の守り勝ちとなり、ついに最終戦を残しJ2優勝、そしてJ1昇格を決めてしまった。


伝説の横浜ダービーマッチ再び

横浜FCがJ1に復帰ということは、サッカーファンなら誰もが思い至る事。

そう、あの伝説のマリノスとの横浜ダービーが再び帰ってくるという事実。

同じ横浜をホームタウンとし、同じ横浜国際と三ツ沢をホームスタジアムとしてきたマリノスとフリューゲルスの、互いに絶対負けられない、プライドを賭けたあの熱いダービーが帰ってくる。

ダービーマッチは不思議なもので、昔からなぜかその時に順位の低い方が勝つ傾向が多かった気がする。
つまり、どちらかが優勝争いをしていると、決まってどちらかがダービーマッチでその邪魔をする、という記憶が強い。
マリノスが優勝争いをしていたときに、なぜか当時ダメダメだったフリューゲルスがダービーだけは勝ち、そして1997年頃にパルメイラストリオを擁し優勝を争った時には逆にマリノスがダービーマッチを制しフリューゲルスの優勝を阻止した。

そんな因縁がダービーマッチにはつきまとう。
例え優勝を逃しても、ダービーだけは負けられない。
しかもライバルチームが優勝するなんてあってはならない。
理屈ではなく、魂と魂のぶつかり合い。
それがダービーマッチなのだ。

今から来年のダービーマッチが楽しみだ。
確かにザスパのホーム戦などの兼ね合いもあるが、おそらく私はザスパホーム戦より横浜ダービーを優先させるだろう。
(更に個人的な事で、春には双子が出産予定だが・・・)



・・・書くことが多すぎて文もまとまりきれない。
とにかくフリエの魂を継いだ横浜FCのJ1での奮闘を願わずにはいられない。
京都や福岡のように、せっかくJ1に復帰しても、すぐに降格争いとなるケースが最近多い。
J2で培った戦術をベースに、まずはしっかりとJ1残留に務め、いずれはマリノスを越えるチームになって欲しいと願う。



フリエ魂は永遠に




(06.12.08UP)

天使



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