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全国民を裏切った形のペテン師ジーコ率いる日本代表の2006年ドイツW杯での惨敗、永遠の軍神・中田英寿という軸を失った後の日本代表。
中田ヒデや小野、稲本といった黄金世代の時代が終わり、個の力ではなくこれからは組織力が重要という事で、オシム監督にバトンが任された。
しかし、オシム流が浸透する間もなくオシム監督の体調不良により無念の降任となり、後を引き継いだのはフランスW杯の時、日本初のW杯を戦い抜いた経験を持つ岡田監督だった。
当初、オシム流をなんとか受け継ごうと四苦八苦していた岡田監督だったが、どうにも歯車が合わず、ついにオシム元監督と相談した上で自分流を貫く覚悟をした岡田監督。
その頃中田ヒデに代わる日本のエースとして本田圭佑が台頭してきており、その本田の起用方法にずっと悩みながらどうにか予選を勝ち抜くも、W杯直前になって壮行試合で韓国に完敗を喫するなど、ここにきて岡田監督更迭すら取りざたされる事態となった。
私としても、もはや4−2−3−1が限界に来ており、遠藤、長谷部という日本屈指のセントラルMF2人を最大限活かすためには、本田のポジションを思い切って削り、阿部や稲本といったアンカーを入れるべきとこのHPでも熱弁していたが、なんと驚くべきことに本番直前になってこのアンカーを入れた4−1−4−1を採用することを岡田監督も英断。
更に私の予想も超えて、トップ下のポジションを失う形の本田をなんと1トップで起用する奇策にも撃って出た。
そして阿部をアンカーに入れた事で予想どおりそれまで黒子役に徹せられていた遠藤らのゲームメイクが冴え渡る事となり、更に1トップに入った本田が、本当はこここそが本職では?と思えるほどのフィジカルの強さとテクニック、勝負強さを活かして、世界でも類を見ないほどの完璧な1トップを務め上げ、オランダやデンマーク、カメルーンというまさに死のグループに入った日本は堂々の戦いぶりで予選リーグ2位通過を決め、見事決勝トーナメントに進出(ベスト16)という快挙を成し遂げた。
この岡田監督の大いなる功績を讃えるべく、ここにその軌跡を刻みたい。
(12.1.1)
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