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独特のドリブル

中盤(今はFW)のユーティリティー 茂原岳人

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横棒


ヴァンフォーレ甲府 FW#8
独特のドリブルを持つ男 茂原


茂原 岳人(しげはら たけひと)
生年月日 1981年10月6日
身長/体重 180cm/72kg
血液型 A型
出身地 群馬県 館林市(邑楽FC)
利き足 右

〜経歴〜
前橋育英('97〜'00 '99、'00選手権連続ベスト4 U-18候補
ヴィッセル神戸('00〜'01)
川崎フロンターレ('02〜'03)
柏レイソル('04)
サンフレッチェ広島('05)

公式戦戦績
(数字が出場数 ( )内は得点)

J1神戸
'00 J1・6(1) 天皇杯・4(1) U-19候補
'01 J1・9 カップ・1 U-20候補

J2川崎
'02 J2・30 天皇杯・4(1)
'03 J2・39 天皇杯・3

J1柏
'04 J1・15 カップ・4(1)

J1広島
'05 J1・28 カップ・5 天皇杯・1

J1川崎
'06 J1・2

J1甲府
'06 J1・20(5)
'07 J1・26(6) カップ・3 天皇杯・2

J1柏
'08 J1・6 カップ・1






日本代表候補に選出されながら・・・残念な逮捕劇による解雇

甲府でFWとしてブレイクし、2008年柏レイソルに鳴り物入りで入団した茂原は、その頃個の力で突破できるFWを探していた日本代表の岡田監督に代表候補として呼ばれる。

そんな呼ばれた矢先の事だった。

2001年という昔の女性宅侵入、窃盗が下記に書いた2006年の誤侵入の際に採取されたDNA鑑定で一致され、時効直前にして逮捕という事になった。

これに関しては本人も事実を認め、証拠もあるため弁解の余地もないが、しかしまだ当時未成年の時の犯行で今頃逮捕となり、それにより代表候補まで登り詰めた経歴が一瞬にしてフイになるとは、残念でならない。



もし、まだ再起の道があるなら・・・

こうして2008年5月に柏レイソルを解雇されてから、2009年2月現在に至るまで茂原のその後の情報は無い。

確かに不祥事が重なってしまった茂原だが、私の茂原というサッカープレーヤーに対する評価が何も変わるわけではない。


もし、また再起の道があるなら・・・例えばその行く先が地元のザスパであったなら・・・

もう一度茂原のプレーを見たい。




(09.02.11UP)




不祥事を乗り越え・・・甲府でFWとして邂逅

06年、主に攻撃的サイドプレーヤーとして各地を渡り歩いてきた茂原は、再び古巣の川崎にレンタルとして帰ってきた。

川崎のJ2時代は主力として活躍してきただけに、チームにとけ込むのも早かったらしく、やはり右サイドなどでシーズン当初レギュラーポジションを得た・・・かに見えた矢先だった。


シーズン明けてまだ間もない3月20日、泥酔状態で女性のマンションに誤侵入した事件が発覚し、時点は急変。

当時はかなりの大騒ぎとなり、指紋が発見されただ、指紋が照合されるということは前科があっただ、憶測が憶測を呼び、これはちょっと深刻な状況かな、とかなり私も心配したものだった。

不祥事の顛末

しかし、ネット社会となっている現代は便利なもので、その後いろいろな情報を見るに、どうやら本当に単なる誤侵入だったらしく、留置場で一晩だけご厄介になっただけで釈放。
その女性とも和解し、事件に発展することは無かった。

そこまで泥酔するとは何事か、子供に夢を与え、多くの人が応援するJリーガーとしての自覚は、と問われると立つ瀬もないが、当時24歳の若者の一時の過ちは誰しもがあること。

ただ茂原の場合、たまたま自分の部屋と間違えて入った部屋が独身女性の部屋だったことや、近所でそういう事件が起きてきており過敏になっていたこと、前科として学生時代の自転車泥棒の経歴があることなど、いろいろな要素が重なってしまっただけだ。


甲府での再生

しかしそんな軽い事件も、注目されやすいJリーガーである茂原にとっては大きなダメージとなってしまった。

レンタル元、レンタル先のチームからは当然解雇となり、せっかくこれまでの活躍で培ってきたJリーガーとしての地位、サッカー選手としてのポジションを全てフイにする事となってしまった。

まさに一からのスタートとなった茂原だが、その後ボランティア活動などを通して反省の色を深めていき、その姿勢が買われてか当時J1に上がったばかりだった甲府が茂原を拾った。

練習生として参加し、7月には早くも正式契約となり、意外にも早い復帰となった茂原。

自分からすると、あれだけの騒ぎになってはもうJリーガーとしての道は無いのでは、と思っていただけにこのあまりに早い復帰は奇跡的に見えた。


ドリブラーとしての覚醒

甲府のシステムがこれまた良かった。
J2時代からの甲府の代名詞、4−3−3の攻撃的な布陣を、J1に昇格してからも貫き、3トップの中央には現在ガンバ大阪で活躍するFWバレーを据え、左のウィングにはこの茂原が入った。

この攻撃的なポジションで茂原は覚醒した。

これまでも茂原の特徴的なプレーといえば、日本人選手ではあまり見る事の少ない独特のリズムを持ったドリブルだったわけだが、茂原は意図的にJリーグに入ってからはあまりこのドリブルには固執しない方向だったように見える。
本人の言葉どおり、プロの壁に当たり、プレースタイルを変えていった結果だったのだろう。

しかしFWとして攻撃しかないポジションを任された茂原は、再びこのドリブルを解禁させ、もともと万能の能力を持つユーティリティー性とあいまって素晴らしい攻撃力を発揮。

夏からの途中加入ながら、自身も5得点を決め甲府のJ1初年度の残留に貢献した。

同じく一緒に、圧倒的なJ2での独走昇格という実績を引っ提げてJ1に昇格した京都、福岡があっけなく1年でJ2に降格した事を考えると、J2でぎりぎり3位に滑り込み、入れ替え戦を経てなんとかJ1にこぎつけた甲府にしてみればまさに快挙だった。


センターフォワードとしての飛躍

甲府で2年目となる今季2007シーズン、茂原はゼッケンもレギュラー番号である”8”を与えられ、これまでのゲームほぼ全ての試合で絶対的なレギュラーとして出場している。

茂原のドリブルについては世間の評価も高く、1対1ならフォローなんて回らずとも絶対に抜く、というところまでチームの信頼を得ている。
今や茂原のいない甲府攻撃陣はあり得ない、という高みまで来ているわけだ。


証明された実力

やはり、並の選手ならばあれだけの不祥事があれば、間違ってもJ1のチームが拾うなんて事は無かったはずだ。
何よりも大事なチームのイメージというものがあるし、当時の茂原を入れる事が”マイナス”要素ではあっても”プラス”要素は無かったはずだ。

しかし茂原は拾われた。
そしてそれが間違いではなかったといわんばかりの活躍ぶり。

茂原の能力の高さがこれだけでも推して計れるし、また茂原の人間性についてもやはり間違いはなかったという現れだろう。
あの事件から想定された最悪のケースの人格破綻者ならば、絶対にこのような成功はあり得ないし、チームからの信頼も勝ち取れないはずだ。
最近目にしたサッカー雑誌でも、チームメイト(キャプテン石原)からは甲府から日本代表が出るとしたら茂原しかいない、と言われ、茂原はいやいや、そんなはずはない、と謙遜していた。

どうやら昨年の不運な事件は雨降って地固まるというか、茂原にとって決してマイナスばかりでも無かったようだ。

何よりも今回の事件を乗り越えた事による精神的な面での成長は計り知れない。


サッカーができるという喜びを噛みしめ

とにかく、今こうしてJリーグのピッチでサッカーができているということ。
それを支えてくれている全ての物事に感謝し、それであるがゆえに自分の100%以上の力を出し切ろうとプレーする。

それが茂原にこれまでに無い積極性を与え、それがドリブルに、その他のプレーに反映されているのだろう。
ようするに今の茂原には迷いはない。
ただ一つだけ、サッカーさえ出来るのなら。



育英黄金期、松下、正美、岩丸らの育英カルテットの一角にして、現在一番の出世頭、茂原のこれからの活躍を願うばかりだ。


(07.05.22UP)





〜2005年当時の紹介文〜


前橋育英での黄金期

茂原といえば、ザスパFW正美、GK岩丸、キャプテンMF松下らと共に育英黄金期を形成し、彼らと共に2年生の頃から強豪育英でレギュラーを張り、2年、3年と全国選手権で連続ベスト4入りを果たした。

しかし肝心の3年生の選手権では、確か怪我の影響でフルでの出場ができず、切り札としての途中出場が多かった。

2年生の時はCBをやり、3年生でボランチとなるが、守備的な選手かというと実は独特のリズムを持ったドリブルもあり、途中出場では流れを変える攻撃的な役割も与えられた。

この頃から、茂原は守備も攻撃もこなす中盤のユーティリティープレーヤーとしての才覚を磨いていった。


J1入り、神戸で右サイドを担当

タレント集団の一人として、茂原も他の同級生らとともにJリーグへ。
行った先はヴィッセル神戸。

ちょうどこの時期MF平野が神戸に行き、左サイドを務めていたため、たまに途中出場で投入される茂原を何度かみれた。

やはりドリブルに自信を持つ茂原は若さもあってか積極性がよく、まさにサイドのプレーヤーとしてうってつけ。
後半投入されると一気に神戸の攻撃陣を活性化させた。
正直なぜスタメンで起用されないのか、というほど(ひいき目もあるでしょうが)茂原は良かった。

しかしそんな私の評価とは別に、やはり高校生上がりの1年目、2年目は監督も使いづらいのか、あまり活躍したとまではいかなかった。


フロンターレでレギュラーに

神戸で下積みを積んだ茂原はフロンターレへレンタル。
これが茂原にとって開花のきっかけとなり、完全レギュラー固定で神戸の時と同じく右サイドで活躍。
この頃、茂原は完全にサイドのプレーヤーとなっていた。

果たして彼の本職はどこなのか?


柏でJ1復帰も・・・

川崎で実績を積んだ茂原は満を持して柏でJ1復帰を果たす。

ファーストステージは柏の3−5−2の右アウトサイドを務め、守備に攻撃に疾走する。
しかし柏はここ数年ブラジル人トリオにチームの骨格を任せてきたツケが回ってきており、日本代表であれだけのポテンシャルを見せるFW玉田も活かせないまま低迷。

そこでセカンドステージ、残留を第一の目標に掲げ早野監督が就任。
4−4−2のシステム変更と、メンバーの入れ替えという大手術を行う。

そのためにレンタル先の名古屋から呼び戻されたのが前商出身で茂原も目標とする選手の一人、天才パサーMF大野であり、それまではブラジル人による中央突破だった攻撃を、左に大野、右に増田を置いたサイドからの攻撃に切り替える。

ただでさえ、谷澤やゼ・ホベルトらと激しいレギュラー争いをしていたというのに、大野の帰還により完全にMF陣が飽和状態となる。
ベンチに入ったり入らなかったりの試合が続くが、ベンチに入った試合では茂原の突破力、運動量はやはり途中投入に有効であり、9月から10月にかけては大野と入れ替わる試合が多かった。
つまり残念ながら大野と茂原が同時にピッチに立つ事はほとんどなかった。

しかし茂原はこの大野との半年の間、大野の天才的なパス、クロスの精度を身近に感じ取った事だろう。
これまでドリブルと運動量が主な武器であった茂原に、このキックの精度が加われば凄いプレーヤーになるかもしれない。


 そして広島へ

もはやチームとしての根幹を失い、混乱状態に陥っている柏はとりあえず茂原を放出。
2005年、茂原は広島でプレーする事となった。

そして9月末現在、茂原にとってこの広島への移籍は成功だったといえる。

チームとしての戦術が硬直化してしまっていた柏と違い、現在の広島というチームは非常に良いサッカーをしている。
若い選手が多いからかとにかくよく走る。走らない選手はいらないとでもいうように、特に中盤には運動量を求める。

その戦術に茂原のスタイルは合致し、ポジションを本職のボランチに戻し守備に攻撃に奮闘している。
9月のレッズ戦ではボランチでスタメン、途中選手の入れ替えがあり司令塔へと活躍。
サイドにボランチに司令塔。中盤ならどこでもこなせるユーティリティー能力を完璧に備えてきた証拠だ。
結局そのレッズ戦では3−4で負けたのにも関わらずHP・J’sゴールでベストイレブンにも選ばれた。
こんな活躍はその前までの柏では絶対できなかっただろう。

茂原の活躍と共にチームも好調。
もともと広島というチームは森崎兄弟、駒野、前田、大木、田村、茂木と数多くの広島ユースなどからの若手を揃え、ぐんぐん伸び盛りとなっている。
今後も数年、茂原もこの広島で活躍できれば、サッカー選手としてのかなりのキャリアアップが期待できる。

広島には数多くのライバルがいて、チーム自体も特に選手を固定せずに運用しているようだ。
しかし茂原のユーティリティー能力はそんな実力者揃いの広島の中でも、かなり監督にとって重宝されていると感じる。
今後もしっかり活躍して欲しい。





(05.09.28UP)



天使



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