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世にも珍しいドリブラーがゲームメーカー(司令塔)を確立したチーム
それが1998年の横浜FLUGELS
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9年1月1日の横浜FLUGELS解散後、キャプテン山口素弘の「横浜フリューゲルス消滅への軌跡」という本が出版され、その後ろに確か下のような消滅時点でのベストメンバーが記載されていたように思う。
その布陣をあらためて見つめ自分は1999.9時点である1つの結論が出た。
それから約5年が経とうとしているが、今でもその文章を読み返してその結論がやはり正しいのではと思うのでここで記載したい。
1999年1月1日時点;横浜フリューゲルス ベストメンバー
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FW;フォワード |
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9
吉田
FW |
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11
久保山
FW |
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OMF;攻撃的MF |
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10
永井
OMF |
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WB;ウィングバック |
6
三浦
WB |
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12
波戸
WB |
DMF;守備的MF
(ボランチ) |
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5
山口
DMF |
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8
サンパイオ
DMF |
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ST;ストッパー |
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3
薩川
ST |
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13
前田
ST |
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SW;スイーパー |
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7
原田
SW |
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GK;ゴールキーパー |
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1
楢崎
GK |
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ドリブラーゲームメーカーの確立
1999.9.28現在、今でもこのチームとメンバーに関して思うことは”数少ないドリブラーゲームメーカーの確立されたチーム”ということである。
つまるところ、98年の永井の話になるのだが、97年2nd開幕時点でのフリューゲルスはJリーグのチームの中でもかなり偏ったメンバー構成になっていた。
97年2ndでの極端な攻撃的MF不足
とにかく攻撃的MFがいない。
やはりそれは97年1stまでセレソンの11番(時には7番)を背負っていたジーニョという世界屈指のゲームメーカーがいたことにより、他の司令塔が全く実戦で育たなかったことと、そして前園のV移籍。またはそれ以前でいうと左足の魔術師エドゥーの君臨。
それらの攻撃的MFが1997年に一気にいなくなった。
当然97年2ndでの成績はかなり落ちた。名前も忘れたえせ外人(フェルナンドとか)等をとっかえひっかえ補強し天皇杯では決勝までいったが、決勝ではその外人も出場停止。
ついには中盤はみんなボランチに
なんとゲームメーカーには上のメンバー表でSWのポジションに入っている原田が決勝ではつとめた(さすがにびっくりした)。
そりゃアントラーズに完敗もするわ。(確か4−1くらいだった)
原田は大好きなプレーヤーでチーム随一のユーティリティ、オールラウンダープレーヤーではあるが、いくら何でもボランチが本職の原田にあのポジションはきつい。
確かあの試合、中盤の4人は全てボランチだったと記憶する。つまりは4ボランチ!!史上まれにみる布陣といえる。
そうなのだ。Fには山口、サンパイオを中心に優秀なボランチが4、5人もいる(99年現時点五輪で活躍する遠藤弟は完全な控えだった)のに攻撃的MF、ゲームメーカーは皆無だったのだ。
ゲームメイクを外人に頼ったツケ
エドゥー、ジーニョと外人に頼り、日本人MFの育成に失敗したツケが来た訳である。
これは当時問題視されていた事でもあり、ラモス以外の司令塔をどこのチームも外国人に頼っていたことの代表例がまさにFLUGELSであった。
(やはりゾノの脱退は大きいかったといえる)
10番永井の加入
そして99年。Fに放浪の高速ドリブラー永井の兄貴がやってきた。
当然10番。そりゃそうだ、他につけるとなれば山口くらいしかいない番号である。
この年の永井は明らかに10番であった。攻撃は全て彼を起点に動く。まあもう一人フットレという外人もいたが彼もまたドリブラーであった。これに例の三浦が加わり、Fは自由奔放ドリブル集団と化した。
ご多分に漏れずそんな自由奔放チームが強いはずはない。センセーショナルな3−4−3を掲げたレシャックはもろくも解任され、チームは3−5−2の昔のポジションに戻った。
更にフットレも解雇され、永井はチームに唯一人(換えが全くいない)のゲームメーカーとして、いよいよジーニョの10番のポジションにつく。
ここからが世にも希有なドリブラーゲームメーカーの確立である。
98年天皇杯での集大成
ちょっと話を進め、ここからは天皇杯の戦いのイメージを主に書くが、とにかくフリューゲルス最後の聖戦となった天皇杯で永井は切れまくった。
ドリブルを中心にそこからのミドルシュート、パス、キープ、己の高い個人技をフルに活用し前線を形成、チームの攻撃面に関する全信頼を集めた。
徹底したサイド攻撃
更にここで挙げなければならない点は、3−5−2に戻った事で、F特有のサイド攻撃が生きまくった事である。現代表の三浦アツはもちろん、右には波戸と一樹がいる。人々の記憶には永井の中央突破よりもこの切れ味するどい両サイド攻撃の方が印象に強いかもしれない。
前線を荒らしまくる若手FW陣
更にはFW陣。
トップの2人には若い吉田と久保山がほぼ不動で就いた。
とにかく若く、豊富な運動量。それによりこの2人は前線を荒らしまくった。この2人の動きについていくDFは相当まいったはずだ。
結果、中央に生まれるスペース
この両サイド攻撃と2トップが動きまくりサイドに流れることによりDFは必然的にサイド側に人数を割かれる。
結果、中央には広大なスペースが広がるのである。
その広大なスペースで永井の高速ドリブルが冴え渡る
このスペースにこそ永井の高速ドリブルは120%フルに活用される。30mの独走は当たり前、永井の高速ドリブルは停滞からの突破でなく、勢いに乗ったスピードにこそ効果を発揮する。あのスペースでトップスピードにのった永井のドリブルはそう簡単に止められない。
永井をフォローする国内最高のドイスボランチ
そして後方には山口、サンパイオの国内最高のドイスボランチがしっかりと守っている。
無謀なドリブルはえてしてカウンターをくらうものだが、たとえ永井がドリブルを止められたとしてもボランチがしっかりフォローするので、そのようなカウンターらしきものを喰らった記憶はない。
そう、このチームはFWからDFまで、まるで永井がドリブルをするためだけに存在したかのようなチームであった。
これがドリブラーゲームメーカーを確立できた理由である。
その他の成功事例「96年オリンピック代表」
実はもう一つこのドリブラーゲームメーカーを確立できたチームが存在する。
それが96年のオリンピックチーム、つまり若き日本のエースゾノである。
当時、チームでジーニョと組んだゾノは明らかにFでは機能していなかった。
しかしその反面オリンピック代表でキャプテンマークを付けた王様ゾノは城や松原ら下僕を引き連れそのドリブルは閃光を放った。そう、まさしく永井とダブり、ドリブルが安定しキレがあることでそこからのパスやシュートも冴えるのである。
またはアルゼンチン代表でのオルテガ。(99-00パルマでは評価は低いが・・・)
つまり、ドリブラーを本当に活かすなら、一緒にパサー型ゲームメーカー(中田、中村等)を組ませてはだめなのだ。
そのドリブラーにチームの全権利を預ける覚悟で行かなければいけない。
永井を守り、中心に据えた布陣
もう一度上のメンバー表をよ〜く見て欲しい。
まるで永井がみんなに守られるようにして、しかしやはりチームは永井を中心に存在していることがお分かりであろう。
別の見方をすると、永井が中央にポツンといる感じにも見える。
永井無しでは奇跡はあり得なかった
そして永井以外にこのポジションが許される選手はFにはいなかったのである。
もしも永井が天皇杯の途中に怪我やレッドをもらっていたら・・・
果たしてFに奇跡は訪れなかったであろう。
天皇杯優勝の奇跡は何も選手達の圧倒的なモチベーションだけではない。
戦力、戦術が結実された裏付けがそこにはあった。
システムは3−5−2Wボランチ
’96オリンピック、FLUGELS、またはアルゼンチン代表。
いづれもドリブラーゲームメーカーの成功事例となるチームのシステムが3−5−2のダブルボランチであることは大変興味深い共通点である。
攻撃的MFはチームに1人でなければならない
もう一度言おう、ドリブラーを本当に活かすならそいつとポジションがダブるような攻撃的MFを別に置いてはいけない。あくまでも攻撃的MFはドリブラー1人にするべきであり、その周りをFW、ボランチ、サイドウィングが固めるシステムにするべきである。
例えば永井が現在所属する横浜マリノス。
このチームには中村という絶対的なパサー、ゲームメーカーがいる。
永井も当然出場する時には中村とペアを組むことになる。(ならざるを得ない)
しかし本人も気付いていると思う。
ポジションがダブる。
やりづらい。
スペースがない。
おそらく本人はこう感づいているはずであり、そのためか精彩を欠き最近はスタメンを外れがちでもある。
ドリブラー個人に責任はない
これは一般にいう相性の悪さなどではなく、また永井がわがままな訳でもない。(表面上でとらえる一般の世論は格好つけたがりのドリブラー達にはそういう中傷をつけがちだが・・・)
悪いのは個人ではなくドリブラーを理解していないシステム、チームなのだ。
中央に集まるボール・・・スペースは潰される
マリノスではどうしてもチームのボールは中村に集まる。つまりは中央に集まる。中央にボールが行くことで当然、敵も味方も中央に固まる。
そこに永井がドリブルをするスペースは無い。
横Fのシステムと大違いである。
明らかに永井にとって中村は邪魔である。そして中村にとって永井はドリブラーでなく単なるパスの交換相手でしかない。つまり中村にとって永井はそんなにやりづらくはないかもしれない、ただ単に平凡な選手でしかないが、永井にしてみれば中村によりかなり自分が殺されている訳である。
だから端から見ると中村が悪いのではなく永井が悪く見える。
パサー偏重の時代
現在の日本はラモスに頼ったドーハ組から一変し、中田、中村、小野という若手ゲームメーカー達が頼もしく育っている。
これも時代の流れなのかもしれないが、やはりパサー型ゲームメーカーが珍重される時代であり、ドリブラーは決してチームの中心にはなれない。
オプションではなく、”メイン”に
せいぜいFWのいちタイプとして捉えられたり、攻撃的MFの中のあくまでオプションの1つとして捉えられる。
そんな現代でも、時として人々はその魅了されるドリブルに一つの可能性を見出そうとする。
あの天皇杯で見せた30mドリブル&強烈なドリブルシュートをみれば永井が代表候補にちらほら名を連ねるのも確かに頷ける。
しかしだめなのだ。ドリブラーをオプションとして捉えてはならない。
まあ、後半投入用の補欠要員ならともかく、本当に期待するならあくまでも唯一無二のゲームメーカーとしてチームに迎え入れなければなら
ない。
しかし、上記で述べた若手パサー型ゲームメーカーが幅を利かす現在では、それは不可能ともいえる。
ドリブラーの、そして日本サッカーの可能性
日本にも多種多様なドリブラーがいる。特に若手には最近ドリブルにこだわる選手がまた出始めている。
かつてのドリブラーというとゾノや永井。森島もその一人か。
しかし彼らをみても分かるとおり、日本代表ではどうもドリブラーが閃光を放つ機会が少ない。
しかし、それは決して彼ら自身の問題ではない。
ラモス以降、スルーパス、キラーパスにこだわりを見出してしまった現在の日本のサッカー界の風潮にそもそも問題がある。
決して個人を責めるのではなく、きちんと問題の根底を理解する必要があると思える。
ドリブラーの活かし方、使い方を誤ってはいけない。
たとえ現代サッカーであっても、ワンタッチですぐに味方にパスを出したり、あっさりとあきらめるFWではなく、ドリブルでガンガン勝負してくる選手こそがDFが一番嫌がる選手であることに変わりはないのだから。そして短足で低重心ですばしっこい日本人の特質にはまさしくマラドーナ級のドリブラーが出てくる可能性があると信じる。
これもまた、日本サッカーの一つの可能性である。
(1999.9.28記載のメモを一部修正、転載 2005.1.19UP)
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